見出し画像

嫌われる勇気 について アドラー心理学のプロセスを整理・要約する


2013年、嫌われる勇気(岸見一郎 古賀史健)に出会い、それまで漠然と考えていたことが、整理・補完されました。以來、それまで感じていた 生きづらさ から、かなり解放されたように感じています。

本稿では、嫌われる勇気 に書かれている アドラー心理学 の考え方に基づいた、コミニケーションの仕方、および、それを実践していった結果生じる変化を私の経験に基づいて整理・記述してみようと思います。

結論は、

アドラー心理学は、一種の人生方針であり、実践するか否かは各人が選べば良い。
アドラー心理学は19世紀の認識論に基づいており、
1 課題の分離
2 承認欲求の否定
3 他者貢献の実感の内面化
の段階を経て、個人を自立(=生きづらさからの解放)に至らしめる。

アドラー心理学を実践するにあたっては、まず課題の分離を徹底することが重要であり、特定の集団に入るよりも個人的に実践することを推奨する。

というものです。

以下、詳説します。

アドラー心理学とは
嫌われる勇気 は アドラー心理学 の入門書です。アドラー心理学とはどのような心理学なのでしょう。アドラー心理学の創始者、アルフレッド・アドラーは、19世紀から20世紀初頭にかけての人物です。フロイト、ユングに並んで、心理学の3巨頭と呼ばれることもあり、自己啓発の源流とも言われています。

思うに、アドラー心理学の背景には、カントの認識論と第一次世界大戦があります。

カントの認識論について説明します。
イマヌエル・カントは18世紀の人物です。彼の認識論は、自然科学において、なぜ法則が存在するか の問いに答えるものとして、後世に不朽の影響を与えました。19世紀後半の知識人として、アドラーがカントの認識論に親しんでいたことは、想像に難くありません。実際随所にその影響を見ることができます。

では、カントの認識論とは、一体どのようなものでしょうか。
カントの認識論は、 
物自体(=ホントの世界)を知ることは、誰にもできない。
というところから出発します。

我々、人間にできるのは、主観を通じての体験にすぎず、それは物自体ではない。
よくたとえに出されるのは、色眼鏡をかけている人間というモデルです。
赤い色眼鏡をかけている人がいる。だから、実際には、青いものがその人には紫に見える。
全てにおいて、私たちは目に見えない色眼鏡を強制的にかけさせられているようなものなのだ。というたとえです。

なぜ、この考え方が重要かというと、この考え方によって、考察の対象が、物自体(ホントの世界)から、私たちがかけている色眼鏡の性質(人間の主観のくせ)にシフトさせることができるからなんです。

物自体(ホントの世界)がどうなっているかわからない(例えば、物自体の世界に法則が存在しているのかはわからない)。だが、私たちの体験を省察することで、私たちの主観の癖を考えること(認識論)はできる。

カントは、このような出発点から思索を重ね、時間と空間が私たち人間の認識に特有な形式であること、法則(因果関係)を通じて自然界を認識していることなどを明らかにしていきます。
いわば、世界そのものに法則があるかないかはわからないが、私たち人間は、世界を法則にまとめられるような形式で認識をする癖があるという そういう結論に至ったわけですね。
こうして、めでたく自然科学者は、そもそも世界に自然法則などというものがあるのか などという疑問にかかずらうことなく、研究に邁進できるようになったのでした。

アドラーはこのようなカントの図式を 私たち人間は、出来事について価値判断をしている という形で引用します。どういうことでしょうか。
これまたよく引用されているのは、井戸の水とコップに入った水のたとえです。
井戸の水は温度が年中一定で二十度です。これは、夏には冷たく、冬には暖かく感じます。
同じ温度でも感じ方が変わるわけですね。
コップに水がちょうど半分の高さまで入っているとします。半分も入っていると捉えるか、半分しか入っていないと捉えるか で見え方が変わります。
このように、アドラーもカントと同じように、人間は色眼鏡を通じて出来事を見ている と考えます。色眼鏡が価値判断、物事は価値判断される前のあるがままの出来事です。

価値判断とあるがままの出来事を区別する考え方は、いわゆる自己啓発と言われる書籍の常道です。この考え方は元々18世紀の哲学者の認識論がベースになっていたわけです。

アドラー心理学の特徴を考えるにあたって、認識論に並んで、大きな背景になっているのは、第一次世界大戦だと思います。

アドラーが生きた時代、人類史上初めての世界大戦が起きました。これは、それまでの傭兵、職業軍人以外の、一般市民を巻き込んだ戦争がヨーロッパ全土で起こったのでした。

戦後、戦争を体験した市民の中で、今で言うPTSD(心的外傷)に悩む患者が現れました。戦争という平和な日常とかけ離れた状態を体験し、生きるためそこに適応してしまったがために、戦争が終わっても、平和な日常に戻れなくなってしまった人たちです。

アドラー心理学には、そうした、社会に戻れなくなってしまった人を もう一度社会に戻す という方向性がはっきりと感じられます。
心理学とは言うものの、心とはなんぞやと学究的に捉えたり、よくある心理テストのように、人を意のままに操作しようとしたりするのではなく、何より 人が社会の中で幸せに生きて行くための方法論 という面が強いと言うことです。これって、いわゆる自己啓発系の書籍の目指すところと重なるわけです。

アドラー心理学はカントの認識論と、第一次世界大戦を背景に自己啓発の源流ともいえる要素(出来事と評価の区別 社会化の視点)を含んでいることについて説明しました。

ここまで読んで、アドラー心理学 ってなんだか、難しそうと感じる人がいたら、申し訳ないところです。実際には、アドラー心理学 は、学問としての面と、心の持ちように関する技法の体系 という2つの面を持っており、後者は具体的かつ実践的です。 嫌われる勇気 は後者の面に焦点をあてています。
研究者を除いた一般の人であれば、アドラー心理学は、哲学、心理学というよりも、武道(空手、剣道など)や芸能(華道、茶道)やヨガ、仏教 といった、メンタルを鍛える技術体系の一種として捉えた方がいいのではないかと私は思います。実際に、アドラーは自身の心理学を 心理学という形で残らなくてもいい。人類共有の財産となればいい。と言っています。採用するしないは個人の自由。だって、心の持ちようの技術の一種なんですから。

ここまで読んでアドラー心理学に興味が湧いた方へ、いよいよ次はアドラー心理学の方法論を具体的に見ていきます。

1 課題の分離
課題の分離とは、自分の課題に他人を踏み込ませない。他人の課題に勝手に踏み込まない。ということです。ある課題が誰に属しているかは、その課題の結果を誰が受け入れるか、で判断します。
なぜ、課題の分離をするかというと、人はそれぞれの主観を通じ出来事を見ているので、どの見方が正しいのか結局わからない。ならば、その一番の当事者が責任を追うしかないという価値観に立っています。

課題の分離 は、アドラー心理学の一丁目一番地、空手でいうところの正拳突きです。
磨けばこれ自体が必殺技になりえますし、これを身につけずに次の段階に入っても、上滑りになります。何かあったら まず、課題の分離。それくらい重要な技法だと感じています。
正拳突き同様、簡単そうに見えて、奥が深いのが 課題の分離 だと思います。

自分の課題に他人を踏み込ませない。他人の課題に勝手に踏み込まない と聞いて、なんだ、個人主義か、他人への無関心か と思ったら、それは早合点です。似ているけれど、ちょっと違うんです。

課題の分離は、人間関係にまつわるこんがらがった認識をリセットして、フラットな状態にするための技法です。
フラットになった暁には、人助けをしてもいいし、他人に興味を持ってもいいんです。
フラットになった暁には。
これが意外と難しい。どのくらい難しいかと言われれば…正しい正拳突きを打てるようになるくらいでしょうか。

例えば、私はかつて、こんな 生きづらさ に関する悩みを抱えていました。共感してくださる方も少なからずいるのではないでしょうか。
・人のためにやっているのに、褒めてもらえない。もやもやする。
・自分が当事者なのに人に頼り切っている。それで自信が持てない。
・人に頼み事をするとき、断られたらどうしようと思って切り出せない。
・人が思うように動いてくれないとイライラする。

これらを課題の分離に基づいて考えていくと、以下のようになります

・人のためにやっているのに、褒めてもらえない。もやもやする。
→それが他人の課題であれば、頼まれてもいないのに、何かをする必要はありません。
 何かをやって、人が褒めるかどうかは、他人の課題なので、それを気にする必要はありません。
・自分が当事者なのに人に頼り切っている。それで自信が持てない。
→自分の課題に関しては、まず自分で動かなければなりません。自分でどうしようもなくなったら、他人に助けを求めましょう。

・人に頼み事をするとき、断られたらどうしようと思って切り出せない。
→頼まれて、それを引き受けるかどうかの判断は、その人の課題です。断られたからといって気にする必要はありません。断られたら断られたで、次にどうするか考え、動きましょう。私にできることは、その人に頼むことまでです。

・人が思うように動いてくれないとイライラする。
→人がどう動くかは、その人の課題です。あなたが気にする必要はありません。あなたにできることは、その人にどう動いて欲しいか伝え、説得するところまでです。

このように、課題の分離とは、
最低限、自分がやるべきこと=自分の課題=やらなかったとしたら気にしないといけないこと

やらなくていいこと=他人の課題=やっていなくても気にしなくていいこと
を峻別すること ということになります。

これをやるとどうなるか。
心に余裕が生まれます。
かなり 生きづらさ が和らぎます。

私の経験上、
他人について、つい手や口を出したくなるのを、グッとこらえたり、
自分の課題で、他人に依存していた部分を、自分でやるようにしたり、
(些細なことですが、私の場合、サボりがちだった自分の部屋の掃除、自分の衣服の洗濯などを自分でやるようにしたら、自己効力感が増したと実感しています。)
自分が気にしなくてもいい部分を気にしないように自分で自分に言い聞かせたり、
慣れるまでは違和感があるかもしれませんが、軌道に乗ってしまえば、心軽い日々を送ることができます。

課題の分離 に関して、いくつか補足します。
・自分の課題と他人の課題の判別について
 と
・自分の感情を 他人の課題 に分類する ということについて
 です。

・自分の課題と他人の課題の判別について
何が 自分の課題 で何が 他人の課題 なのか、適切に判断し行動するには、判断力、心の強さ、そして勇気が必要です。正拳突きを正しくうつには、筋力、柔軟性、バランス感覚などの運動能力が必要なのと同じですね。

ある課題が誰に属しているかは、その課題の結果を誰が受け入れるか、で判断する。
と言われて、個々のケースを 自分の課題 か 他人の課題 か 分類する際、判断力(知性)が必要なのはもちろんですが、むしろ重要なのが心の強さだと思います。心を強く持たないと、自分の欲求が判断を曇らせてしまいがちです。例えば、過保護な親御さんが、子供の将来は自分の課題だ と分類してしまう場合(子供の将来は、その子供の課題です)、自分の部屋を掃除するのはパートナーの課題だと分類してしまう場合(自分の部屋の掃除は自分の課題です)などです。

他人の課題は、踏み込まない、気にしない で済みますが、自分の課題と分類した事柄については自分で扱わねばなりません。それには勇気が必要な場合が多いです。例えば、人から何か嫌なことをされたとします。その人がそれをするしないかは、その人の課題なので、扱いません。しかし、それに対して、どうするかは、貴方の課題なので、扱わねばなりません。
我慢する
というのも一つの手ですが、
それが嫌だとその人に伝え、もうしないように頼む
他の人に相談する
など、他の手もあります。
大切なことは、
そんなんことをすると嫌われるんじゃないか。我慢するしかない。
相談してもどうせ変わらない。我慢するしかない。
など、考えないことです。
相手に伝えて、嫌う嫌わないは、相手の課題です。
相談して、助けてくれるかどうかも、相手の課題です。
自分が置かれた状況に、どう対処するか、そのイニシアチブは、自分が握っているのです。
この考えを実行するには、勇気がいります。嫌われる勇気 ですね。

同じことをするにしても
それしか道がない、やらされている と考えてやることはつらい。
自分がそれを選んだと覚悟を決めてやることは、張り合いもあるし、結果も受け入れやすい。
課題の分離とは、自分次第の状況を作る技法なのだと思います。

・自分の感情を 他人の課題 に分類する ということについて
これは、私の解釈ですが、こう考えた方がシンプルだと思うので紹介したい考え方があります。
自分の感情を 他人の課題(=コントロール対象外) として扱うのです。
従って、課題の分離の基づいて考えると、 自分の感情 は、原則扱わなくて良い事柄になります。自分の感情 を 扱わなくていいなんておかしい。と思った方に向けてさらに補足しますと、 自分の感情 というのは、ここでは 自分の感情がどう起こるのか を指します。
起こった感情に対して、どう考えるのか、行動するのか は自分の課題になります。
例えば、ある出来事に対して、 怒り の感情が湧いてきたとします。 これ自体は、自然現象なので、仕方ない。ただし、その 怒り の感情のまま行動する、または怒り の感情を言葉・思考として発展させて行くのか それとも、一旦、 怒り の感情から距離を取り、その思考を止めようとするのか それは、自分次第でできるので、 自分の課題 ということになります。

課題の分離のポイントは、
自分にコントロールできる部分と、自分にコントロールできない、またはすべきではない部分を選り分けて、自分がコントロールできる部分に心を集中することにあると思います。
自分にどんな感情が起こってくるか それ自体はコントロールできないものとみなし、起こった感情に対して、思考、行動(=コントロール可能なもの)をいかに対応させるかに集中するという考え方は、自己啓発系の書籍で広く採用されている考え方だと思います。

嫌われる勇気 では、感情は感情として独立した章で扱っていますが、このように 課題の分離 に含めてしまった方がわかりやすいと思ったので、紹介しました。

結局、課題の分離は以下の箴言に要約されると思います。

変えられるものを変える勇気を
変えられないものを受け入れる冷静さを
そして両者を峻別する知恵を与えたまえ
(ラインホールド ニーバー)

2 承認欲求の否定
承認欲求とは、誰かに認められたいという欲求のことを言います。アドラー心理学では、承認欲求を認めせん。褒めたり、(その逆側からの同じ表現である)叱ったりすることを認めません。また、褒められたから、叱られたからという理由で行動をかえることを認めません。なぜかといえば、人を意のままコントロールしようとしない、自分がコントロールされようとすることを拒否する、という価値観に立っているからだと思います。いわば、人格の尊重ですね。人格の尊重もカントの考え方です。やはりアドラー心理学とカントの哲学は共通する部分がありますね。

ここで、よく誤解されやすい点について補足しておきます。アドラー心理学では、承認欲求を否定しますが、感謝と勇気付けは否定していない。むしろ、推奨しているということです。どういうことでしょうか。

組織について論じたビジネス本で、承認欲求はよく取り上げられます。承認欲求は、マズローの欲求段階説に基づいて引用されることが多いです。欲求段階説とは、人間の欲求を生理的欲求から始まって、自己実現の欲求に至るまで、欲求を段階にわけ序列づけた考え方を言います。
欲求段階説では、人はまず低次の欲求を求め、その欲求が満たされると更に高次の欲求を求めるようになると考えます。承認欲求は上から2番目、自己実現の欲求の下に位置する欲求です。
人を動機づけるには、賃金(生きていくため=安全の欲求)だけでは限界があるし、自己実現というのも高尚すぎる、もっともよく使うのは承認の欲求だというわけで、職場で褒め合う、感謝し合うことを推奨したりするわけです。

私の理解では、こうしたビジネス本とアドラー心理学は対立・矛盾しません。むしろ、こうしたビジネス本の視点を深めるのがアドラー心理学だと思います。

承認欲求をどのように満たすのか。効果的な満たし方と効果的でない満たし方がある。効果的な満たし方をするべきだ。それを、アドラー心理学では承認欲求の否定:感謝と勇気付けの推奨という形で表現しているのだと私は解釈しています。そちらの方が誤解が少ないと思うのです。

アドラー心理学で否定している、褒める とは おだてる とほぼ同じ意味です。叱る は、 無理やりやらせる という意味ですね。おだてたり、無理やりやらせても、本人が自分で納得したり、希望してやったわけではないので、褒め続けたり、叱り続けないと行動が長続きしなくなりがちです。これは、行動が他人に依存していることを意味します。人の動機付けとして、効果的な方法とは思えません。

では効果的な動機付けとはどのようなものでしょう。先ほどあげた、人に依存して動機付けられている状態の反対の状態:いちいち人から褒められたり、叱られたりしなくとも、自分なりにやりがいや使命感を感じて仕事に取り組む状態(=自発的に仕事に取り組む状態)になるよう促すことでしょう。

では、それには、どういったコミニケーションをとればいいのでしょうか。

アドラー心理学が推奨するのは
何かをしてもらって助かった時、率直に助かったよ と伝えること(感謝)

何かあった時、援助する用意があると伝えること(勇気付け)
というコミニケーションです。

感謝と勇気付けを適切に行うには、課題の分離ができていることが必要です。

私が誰かに何かをしてもらって助かったら、助かったよ と言葉に出して相手に伝えるか、伝えないかは私の課題です。ただし、それで、やりがいを感じ 自発的に仕事をするようになるかどうかは相手の課題です。
ここの線引きがしっかりしていないと、無用のイライラを産むことになります(=せっかく感謝しているのに自発的に動いてくれない!とイライラする)。

相手に協力する用意があることを伝えるかどうか決めるのは、私の課題ですが、協力を頼むかどうか決めるのは相手の課題です。協力の押し売りは、相手の依存を産みかねません。

感謝、勇気付け と課題の分離の関係は、アドラー心理学についての重要な観点を含んでいます。
1つはアドラー心理学とは、一つの技術であるということ、つまり、同じアドラー心理学の使い手でも、上手、下手、未熟、習熟ということがあり得る。ということです。アドラー心理学を学んだら即、幸せになれる というものではなく、実践して行く中で上達していくプロセスが欠かせない ということです。この点も空手に似ていますね。更に空手になぞらえて言えば、同じ空手の使い手でも、体格や本人の資質によって得意技や戦術が変わるように、アドラー心理学の使い方についても、この時はこうすればいいという決まった答えはなく、本人の資質と置かれている状況との兼ね合いによって取るべき行動は変わってくるのではないかと思います。
もう一つは、やはり課題の分離が、アドラー心理学において他の技術の基礎になるということ。課題の分離には、人間関係の距離感を規定するという面と、課題の分離によって生まれた心の余裕を持って他者の自立を援助するという面があるからだと思います。

3 他者貢献の実感の内面化
私が考えるに、アドラー心理学を使って、生きにくさを和らげ、ハッピーに生きていくために重要な論点は、ここまで見てきた
・課題の分離
物事ひとつひとつに誰の課題か(=結果を受け入れる人)を見極め、自分の課題については扱う。他人の課題については踏み込まない。
を前提として、
・感謝:誰かから助けてもらった場合、ありがとう と伝える。

・勇気付け:他人に(課題の分離から生じた余裕が許す範囲で=自分ができる範囲で)、助ける用意があることを伝える。
を実践する
に尽くされると思います。

以下は、これらを実践していくと、どのような変化が自分に起こっていくか、書いていきます。キーワードは 行動による信念の強化 です。また、これらを実践していく上で有用と思われる考え:社会化も紹介します。

行動による信念の強化 とは、何か信念があって行動をするのではない、逆に、ある行動をすることによって、その行動の前提となっている信念が強化されるという考え方です。アドラー心理学にかかわらず通用する考え方だと思います。アドラー心理学の実践にこの考え方を当てはめると

感謝 を実践することで、
私の世界は誰かから助けられたら感謝する世界だ という信念が強化される。
結果、誰かを助けるごとにことさら感謝されなくとも 貢献感 を感じられるようになる。これにより勇気付け(=他者への手助け)をすることが促進される。

勇気付け を実践することで、
私の世界は困っている人にはできる範囲で助けを用意する世界だ という信念が強化される。
結果、困った時に、孤立して抱え込むまずに、人に助けを求められるようになる。これにより、感謝をする機会が益々増える。

こうしてみると 感謝 と 勇気付け は表裏一体、互いが互いの原因結果となって循環する関係にあることが見て取れます。この循環に入った状態が、アドラー心理学に基づいた生き方が軌道に乗った状態であると考えます。生きづらさが緩和され、自分の人生は自分次第であるという信念 と 困った時はお互い様という信念 が両立し、ハッピーに毎日を送れている状態ですね
個を保ちならがら、周囲と協力関係にある。 それが自立した状態であると考えます。

社会化
嫌われる勇気では、人は一人ではいきてゆけない という言及がされています。
自分の幸せのために他者が社会が必要だ。
自分が他者へ貢献することは自分の幸せにつながる。
こうした信念を強化する行動のサイクルに入ることが、アドラー心理学の目標であると感じています。こうして見てみると、アドラー心理学は、個人主義というよりは、共同体主義的な側面を帯びてきます。アドラー心理学の目標は、個人の自立と社会化であり、自立と社会化は同じ状態を指しているのだと理解しています。

ここまで、アドラー心理学を実践するにあたっての重要ポイントとその重要ポイントを実践することで、どのような変化が起こるか、私の経験に基づいて見ていきました。
以下、アドラー心理学を導入するにあたっての注意点、補足を考えて筆をおきたいと思います。

アドラー心理学を採用するにあたっての注意点と補足
1 いきなり行動を変えようとしない
嫌われる勇気 のヒットによって、アドラー心理学の実践例がネット、マスメディアに載るようになりました。その中には、アドラー心理学を実践して、かえって人間関係が悪化した、というものも少なくないように思います。どうして、そのようなことが起こったのでしょうか。

私が見た範囲では、アドラー心理学の失敗談とは、アドラー心理学のキャッチーな面:承認欲求の否定、他者貢献、無条件の信頼(これについては本稿では扱っていません。実践上、重要な点ではないと思います。アドラー心理学を実践していく中で、行動による信念の強化 によって 無償の愛 を実感する人も中にはいるかもしれませんが、必須ではない、少なくとも初期の段階では不要な観点だと思います)といった点に注目して、いきなりこれまでの人間関係をガラッと変えようとした場合に多いように思います。というか、失敗した場合とは、ほぼそういう場合しかないと思います。これは空手に例えるならば、少し空手の理論をかじっただけでいきなり胴回し蹴りをやろうとして腰を痛めた とか、強そうな兄ちゃんに喧嘩をふっかけて返り討ちにあった とかそういう話であって、それで空手の有効性が論じられないように、アドラー心理学の実践の失敗談はアドラー心理学の有効性を論じる材料に必ずしもならないと思います。

大切なことは、アドラー心理学 は 空手 と同じように、技術 なのであって、実践の中で、習熟・上達していくものだということです。初心者のうちに大技に取り組んだり、強敵と戦うことはリスクを伴うので控えるべきで、地味だが基本となる型の修得に時間をかけるべきだと思うのです。

アドラー心理学における空手の基本の型:正拳突き に当たるものとはなんでしょうか。
もちろん 課題の分離 です。それ自体、行動に結びつかないので、地味ですが、あらゆる意味で後々の技術の土台になることは、すでに見てきた通りです。まず、他人と自分の役割、距離感を見直すこと、行動はそれからです。

2 個人で実践するか、集団に入るか
アドラー心理学を実践するにあたって、個人的に実践するか 何か集団:自己啓発セミナー、新宗教 など に入って実践するかについて、私の考えを述べます。結論は、個人で実践するのがいいと思います。集団に入るメリットはあるものの、勧誘 という 負の要素を排除しきれないと考えるからです。

自己啓発の源流と呼ばれているだけあって、アドラー心理学の方法論は、特に珍しいというものではなく、様々な自己啓発セミナー、新宗教 などでみることができます。そうした集団に入ることで、初期のモチベーションの維持ができる、迷ったことを相談できる などの恩恵は大きいと思います。しかし、私がこれまで見てきた範囲では、集団である以上、その維持のために新規会員を獲得することが必要で、新規会員の獲得(=勧誘)のために、アドラー心理学の根本である 課題の分離 が、骨抜きにされがちです。

勧誘は良いことなので積極的に勧めましょう
とか
勧誘のことを 勇気付け と呼んだりする
などが一例です。

これらのアレンジは、生きづらさを緩和し、ハッピーに生きる技術としての劣化を意味するだけでなく、人間関係の新たなトラブルの元となりかねないと考えます。

自分の経験ですが、周りにアドラー心理学の信奉者がいなくとも、ただ自分がアドラー心理学の方法論を実践していくだけで、人間関係は変わるし、生きづらさは緩和されます。

以上、嫌われる勇気 を読んでこれまで実践してきたことを整理、まとめてみました。
この原稿を読んで、嫌われる勇気 アドラー心理学 に興味を持った方は、是非、書籍に方にもトライして見てください。アドラー心理学を実践して、生きづらさが緩和される方が一人でも増えると嬉しいです。

#嫌われる勇気 #アドラー心理学 #感想 #自己啓発  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?