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「あなたがしてくれなくても」に見る人間心理

こんにちは。Recovery of humanity マインドアナリストの美月詞葉です。

今日はいつもとはちょっと志向を変えてドラマの話を書いてみようと思います。

このドラマは、それぞれのキャラクターが皆、それぞれに繋がりを求めて生きているドラマです。

誰かと繋がりたくて仕方がない。でも自分の思い人とは心からつながることは出来ない。愛する人はそこにいる。でも、そこにいる愛する人との間に何かが足りない。

そこには確かに自分の愛する人がいる。でも、それだけでは満足できない。だから奈緒さん演じるみちは、夫である陽ちゃんにSEXを求める。この時点で彼女は夫との間に生きた関係を強く求める。

けれど、夫の陽ちゃんはそれにこたえようとしない。別にSEXだけがすべてではないと彼は妻のみちにそういう。

このドラマの中でこのみちの夫の陽ちゃんはどこか陰鬱な表情を浮かべている。なんと表現したらいいのかわからないけれど、この社会、つまり、生きているという事に対してあまりアクティブな印象は受けない。

彼のしぐさや表情を見ていると、生きているという事に対してその意識があまりにも軽薄に見えて仕方がない。何となくだけれど毎日をただ何の目的も、これといった夢もなく惰性で生きているといってもいいくらい。

彼のこうした屈折した感じは、見ている私にとっては違和感だらけというか、必死に生きようとはしていない、そんな風に見えてしまったりする。

私から見ると、陽ちゃんはどこか世捨て人的な印象が強い。何もかももうどうでもいい。何かに強くこだわったとしても、そのこだわりも長くは維持はしない。何もかも儚く最後には皆散ってしまう。ならば、最初から何もなさない方がいい。

こういった印象を強く受ける。彼をテレビ越しに見ていると、現代の若い子たちを忠実に再現している様に思えてくる。

今現代の子全てとは言わないが、結構多くの子たちが、この陽ちゃんの抱える社会や自分自身に対する絶望みたいなものを抱えていると思う。

自分に何も期待することはなく、そしてこの社会に対しても何も特に期待することがない。ただその何も期待を抱くことのできない漠然とした日々が地獄の様に永遠に続く。

ただただ安泰で可もなく不可もなくくらしていければそれでいい。SEXなんてしなくても、別に生きてはいける。

こうしてこのドラマは、他と交わる事の困難さを描いているともいえる。

何もかもあきらめてしまっている陽ちゃんと、何もかもあきらめきれないみちは互いにすれ違う。

なおちゃんの演じるみちは、自分が望むものをどうしても手に入れたい。それを手に入れることが出来なければ死んでしまうとでもいうような儚さを備えている。でも、夫の陽ちゃんはみちの様に何かをどうしても手に入れたいといったような強い願望を持ってはいない。

彼は特に何も望んではいない。ただ彼の望むのは安らかな自分という存在を脅かさない生活のみだ。

でも、この陽ちゃんの生活をみちが脅かし始める。これまでの在り方を否定して、夫である陽ちゃんにこうして欲しい、ああしてほしいと要求を出すようになる。

このみちの行動は、陽ちゃんの行動変容を強く促すものと私は捉えます。でも、このみちの要求を陽ちゃんは上手く受け入れることが出来ません。

ここで、みちと陽ちゃんの間には亀裂が入っていきます。

みちは、夫の陽ちゃんの持っている世界の中に入っていきたい。そしてそこで一緒に共振したい。色々なことを共有したい。共鳴したいとそう望む。でも、夫の陽ちゃんからすると、何か妻のみちとは一緒に共振したくない、共鳴したくない、共有したくない何か心的葛藤を抱えているそんな風に見える。

一緒に鳴りたくない。鳴りたいのなら一人で心いくまで鳴いたらいいんじゃないか?俺はここで見ているからといったまるでその態度は傍観者。

一緒にというみちに対して夫の陽ちゃんは一人でやっておいでといった感じ。これは、人とうまく共振することが出来なくなっている状態だと私には感じた。

でも、私がここで違和感を覚えるのは、彼はみちとともに鳴りたくない訳ではないんじゃないという事。鳴りたくない訳ではない。一緒に共振したくないというわけではない。彼からすれば、鳴れるならなってもいいよといった感じ。

今回のドラマでは、この鳴るという行為を夫の陽ちゃんは自分から強引に引き出そうとしている。彼の中には鳴らなくてはいけないといった使命感や、夫としての義務感みたいなものがあったのではないかと思った。

この自分を揺さぶる強い義務感、使命感のままに陽ちゃんはみちと身体を合わせるが、そこには共になんとも言えない寂しさとやるせなさが隠れている。

互いの身体を重ねれば、重ねるほどにその心がすり減っていく。そしてそれを隠すために、二人は必死で自分を正当化する。

ここら辺のシーンはもう見ていて痛い。

互いに自分を傷つかないように正当化して見せる。でも、この正当化して自身の中に抑え込もうとしたその感情は、無意識の領域でどうにもならないくらいに暴れて、二人は、その無意識に強く抑圧したその感情についには飲み込まれていく。

私がこのドラマを見ていて思う事は、みちも陽ちゃんも互いに見ているポイントが違うという事。陽ちゃんは、ある意味すべてにおいて絶望している。陽ちゃんの抱える闇というのは、ある種とんでもなく深く感じる。

自分に、この社会、世界の全てに絶望している。生きる気力を失くしている。こうした生きる希望を失くしてただ毎日やってくるこの絶望的な人生に必死にしがみつき、生きるだけでも精一杯。そう言った状態に陽ちゃんの状態はあるのかな?なんてことを想像したりする。

生きるというその”生”を否定してしまったら、この世界はその瞬間に真っ暗闇に覆われることになる。

この真っ暗な闇に陽ちゃんがもし包まれている状態だと想像するなら、みちの要求を受け入れることは出来るはずがない。むしろ、自分が闇深く堕ちていけば、堕ちていくほどに、妻であるみちが受け入れられなくなっていくのは当然だとおもう。

陽ちゃんからすれば、みちが明るすぎて受け入れられない。結婚当初は、そうしたことにも気づかないにしても、その生活が始まると、陽ちゃんは自分が一番受け入れたくない光を自分の元においてしまったという事になり、闇化している陽ちゃんからしたら、みちの存在は自分の闇をあらわにする光になり、それはどうしても受け入れられないものになる。

人間の心理とは複雑なもので、陽ちゃんは最初みちの持っている光にあこがれと希望をいだいたんだとおもう。でも、そのあこがれと期待が、共に生活をしてくる中で徐々に変化していく。自分が強いあこがれの対象にしていたものは、自分の中で徐々に消え失せていく。

陽ちゃんはみちにあこがれた。でも、その憧れは徐々に絶望へと変化していった。陽ちゃんは、みちに何らかの希望を期待を持っていた。みちによって自分が救われることを心のどこかで望んでいた。でも、それが叶わないと分かった瞬間に、陽ちゃんの中で何かが変わってしまった。これが、光だと思っていたものが闇に変わる瞬間だ。

薬も過ぎれば毒となる。こんな言葉があるが、まさに陽ちゃんの中ではこうした内的変化があったことは想像にかたくない。

ここには人間の複雑な心理が描かれていると思う。ようちゃんはつまのみちを嫌いではない。でも、その陽ちゃんの抱えるその心がみちを受け入れることを拒んでいる。その心的な問題が彼の身体的な問題としても現れている。

こうしたドラマを見ていて思う事がある。

どうして人は互いに互いを理解しあうことが出来ないのか?と。

何故、みちは陽ちゃんの抱える闇に気づくことが出来ないのか?なぜ、陽ちゃんのちょっとした変化に気づくことが出来ないのか?それが出来ていれば、これは陽ちゃんにも言えることだが、互いに距離が出来てしまう事もないのにと思ったりする。

仕事柄思う事だが、結婚とは互いにある程度自分の抱える問題を解消してからしなければ、何かを自分の中に抑圧して、綺麗な表面だけを見せたうえでの結婚ではいずれ、そこに何らかの亀裂が入る。

わたしたちはその個人が抑圧した感情の解放を行うセルフマネジメントという仕事をしているが、多くのクライアントが、自分の抱える闇を相手に見せていない。

自分にとって不都合なものは隠し、表面ではきれいな顔をしている。だから、結婚してからあの人はこんな人ではないと思ったという話もよく出るワードの一つです。

でも、それほどに私たちは相手のことなど何も見ていない。よそ行き様にきれいに切り取ったその表面的な部分しか見ていない。もっと言えば、その一部分で、その人の全てをこうだと決めつけている。

これはとても恐ろしいこと。

だからこそ、わたしたちは自身の幸福のためにも、無意識に追いやった自分に都合の悪い想いに向き合う必要がある。この抑圧した想いに正対しなければ、この抑圧した感情がいつか必ず私たちを食らう。

この時いくら悔やんでも、気づいた時には、私たちは自らの腹の中に抱えるその闇に食われる。

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