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きちんとするってなんだ?

ニ、三日前から、千葉雅也さんの現代思想入門という本を読みだした。

この本の冒頭に「現代ではきちんとする方向へと、色々な改革が進んでいて、それにより、生活がより窮屈になっている」という文言がありました。

きちんとする、ちゃんとしなければらなない。逸脱を取り締まって、ルール通りにキレイに社会が動くようにしたい。

これはまさに千葉さんのおっしゃる通りで、わたしたちはいつからか、綺麗なものこそが一番素晴らしいものだという幻想にとらわれるようになってしまったと私自身も強く感じるところがあります。

なので、彼のこうした指摘には深く共感します。

現代人は特になのですが、ルール通りにキレイに整って、整備されているものをきれいだ!と判断します。

なので、その社会の定めるルールや規範にそぐわないものがると、それらを平気で排除しようとします。こうした社会の動きは近年より強くなっている気がします。

キレイであることが善であり、綺麗でないことは排除すべきであるという歪んだ考え

現代人は、綺麗なものしか認めない。汚いものは物として認めない。きれいで美しいものだけが価値がある。そう今この時代を生きている私たちは思っている節があります。

どれが美しくて、どれが醜いか?なんてことは誰にも決められない。でも、それを私たちは自らの主観で決めつけ判断している。これはよく考えてみればとても恐ろしいことだと思います。

私たち人間というのは、何も判断などできない。これは良くて、これはよくないなんてことは元々私たち人間には判断などできなかったのではないかと時々考えます。

これを良しとしたとき、その反対側に良しとされないものが生まれる

何かを正としたとき、その瞬間にその反対に邪というものが生まれる。でも、それを多くの人は理解しているようで理解していない。

自分の目の前にあるものを正としたとき、そこにはその真逆である邪、悪なるものが生まれる。

と考えていくと、この世界に蔓延する悪という概念は、私たち自身が作り出したものだといえるのかもしれない。

これをこうだ!と判断して断定したその瞬間に私たちは、その反対側に自分でも気づくことが出来ない影を生む。これはなかなか認識できない。でも、その影を私たちは毎日作り出しているという事を忘れてはいけないと思う。

何かをこうだ!と断定すれば、必ずそれに伴う別のものが、反対側に同時に生まれる。だとしたのなら、何故、私たちは何かを判断し、これはこうだ!あれはああだ!とそう断定したがるのか?

そんな事をするから、この世界には悪が大きく広がっていく。この悪、影なる部分は、自分の意識から排除されたものだと私は考えている。

これはこうだ!と決める必要のないことを決めたがる大人たち

人間の事をずっとずっと考えていくと、私たち人間が誰かの事をこうだの、ああだの言って限定など出来るものではないというところにたどり着く。そんな事をして他を限定づけて、自分を納得させて生きようとしていた自分に嫌気がさしてくる。

自己分析が私の仕事だが、私は自分の自己分析も行う。この時、誰かをこうだ!と限定している自分を見て、そんな自分にほとほと嫌気がさす。それはなぜか?といえば、それは単に、自分がその他を自分の心の弱さゆえに、そうしておきたいだけだからだ!という事に気づくからだ。

他をこういう人間だ!とかってにこちらで限定することで自分の心を守っている。他にそういう事になっていてもらえれば、徳をするのは自分という事になる。

つまり、こちらからすると、他にはそういう自分がこうだ!と決めつけた人間の姿であってくれないと都合が悪いという事になる。

他が自分の限定した形で存在してくれていれば、自分は自分に都合の悪い面を見なくていい。その他に自分の心の都合の悪い部分を投影して、その他のせいにしていればいいのだから、それほどに楽なことはない。

人間というのはとても面白い不思議な生き物で、何をどうしても苦しみから逃れようとする。そのためにならどんな智慧でも絞り出そうとする。

苦しむことを徹底的に回避しようとするその様は、動物にはあまり見られないのかもしれない。動物は、その痛みや苦しみを甘んじて受け入れているそんな印象がある。それが自然の流れであり、今ここで草食動物が肉食動物に食われていても、それはある意味、この自然の中の大きな摂理の1つであり、そこに動物はもはや反論しようとしない。

動物はこういった意味では、ある種しっかりと自分の生命というものに対して強く腹を括っている。そんな印象がある。でも、人間は違う。人間とはどこまでも自分の命に強く執着する。

そしていついかなる時にも、自分を一番に守ろうとする。何を犠牲にしても、自分だけが生き残ろうとする。

これはいつも思う事だが、もはやこの地球上では人間というこの種だけが、必死にこの自然の摂理というものに抗い生きている気がする。

抗う事の出来ないものに、抗い続ける人間

私たちは、抗う事の出来ないものに今も必死で抗い、もっと言えば、それを自分たちの力で制御することすら可能だと思って毎日生きています。

これも、ある種とても恐ろしい考え方というか、人間独自の考え方なのだと思います。

今、人間というのは絶対に不可能だ!といわれていることを、自らが生み出し創造した科学というものを使って、可能にしようとしています。

でも、それはどこまでいっても私は人間の自己満足の域を出ないのではないかと考えています。

人間なんてそんなに素晴らしいものじゃない。そんなにすごいことが出来るわけじゃない。

動物に比べれば、確かに人間という種はあらゆる面で優れているとはいえる。でも、その人間に出来ることなんて言うのは、本当に限られているのではないかと私は思っています。

人間、それはどこまで行っても人間であって、その域を超えることなどできない。でも、それが出来ると今多くの科学者たちは信じるようになってきている。これはすさまじく恐ろしいこと。

人間、謙虚さを忘れたら終わりです。でも、この人間としての謙虚さを今わたしたちは、自ら捨て去ろうとしているそんな気がします。

人間というのは、その心に謙虚さを持っている。この謙虚さこそが、私たちを人間として機能させているもなのではないか?という事を私は声を大にして言いたい。

謙虚であるということ、何事に対しても誠実であるという事、これこそが、真の人間のあるべき姿なのではないかと感じています。時代の流れの中でこうした考えは少しずつというか、急速に失われつつありますが、これこそが今こそとても大切なことのなのだと私は常々感じています。

人がこの謙虚さ、誠実さを失った時、もうその時、私たち人間は人間ではなくなる。こうしたものを持つことが出来ない人間は、もうそこら辺を徘徊して歩く獣と呼ばれる種と同等のものになる。

そうなった時、わたしたち人間はそこらへんに転がっている死体を貪り食うハイエナ同然になる。

こうならないためにも、私たちは常に自分というものを知る必要があるのではないかと考えています。自分の中にもいいものと、悪いものがある。この分断の流れは、今まさに私たち自身の中にもある。これを自覚することは生きていくうえでとても重要な要素の1つであると考えます。



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