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認識する事の出来ない苦しみ

自分は虐待されていました。そう言えるだけまだまし。本当にきついのは、虐待されていたことを認識出来ない事。笑い話にしてしまう事。

他人が聞けば引きそうな事を淡々と笑い話にしてしまう事。虐待があったことをそう簡単に人間は直視する事が出来るんだろうか?

私は虐待されていましたという言葉をよく聞くが、そう言えるだけ、そう自分の頭で認識出来るだけまだましなのではないだろうか?

人間本当に苦しい事は意識から完全に消える。でなければ生きていけないから。辛い過去は心の深くに沈めてその上に自分にとって都合のいいものをどんどんと積み重ねて行って、本当に苦しい事は何も見えない様にする。これが人間なんじゃないだろうか?

酷い虐待を受ければ、それが直視できないから、それを心の奥深くに強く抑え込んでしまうから、だからこそ、それが過剰なエネルギーとなって色々な所に色々な形を持って表出してくるんじゃないだろうか?

認識出来ているのなら、何も問題はない。問題はひどい虐待を受けながら、それを認識する事を脳が拒否して、自分の人生の全てを綺麗に正当化してしまう事なのではないのだろうか?

私虐待されていました。そう声を上げられるだけ、まだましなのかも知れない。そう認識出来るだけ、まだ救いがあるのかも知れない。

告白する事の出来るものを持っていられるだけ、まだ正常なのかも知れない。これまで自分がどう生きてきたのか?それを何も知らずに、あたかも自分は何事もなく皆と同じに普通に生きてきたかの様な顔をして、これまでの全てを自分の中で作り変えてしまって生きてしまっている。こう言った人間こそが実は一番きついのかも知れない。

知れるだけいい。認識出来るだけいい。それを事実として受け止められるだけいい。本当に強烈な体験を人はそう簡単に思い出す事は出来ない。何故なら、それは自分を破壊してしまうほどに強烈だからこそ、無意識の奥深くに沈めてしまったのだから。


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