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僕が幽霊だった一日 第1章

気がつくと僕は宙に浮かんでいた。

さっきまで、もがき苦しんでいた僕の体は、今は力の抜けきったはしたない格好で、静かに布団の上に横たわっている。どうやら僕は僕の体から抜け出してしまったらしい。空っぽになった睡眠薬のビンが枕元に倒れている。いくつものビールの空き缶がそのまわりに転がっている。枕元のまわりは吐瀉物であふれていた。アルコールと胃酸の混ざった酸っぱい臭いが部屋中を漂っている。

そう、僕はこの世をはかなんで睡眠薬自殺を図ったのだ。

ほんの些細なことで、ユカリとケンカした。
デートで食事に出かけたが、行く店行く店が満員で、なかなか店を見つけられなかった。それをユカリは「計画性がない」となじった。ユカリは初めてのデートのときから直近までの僕の「計画性がない」事例を順々に並べ立てては、僕に怒りをぶつけた。
「もう、あなたとなんか付き合ってられないわ」
ユカリはそう言って、僕を見捨てて立ち去った。

次の日の朝、ユカリのラインがつながらなくなった。電話をかけても留守電になった。ユカリはさっぱりした性格だから、ユカリらしいと言えばユカリらしいのかもしれないけれど、その朝ユカリは僕とのつながりを完全に断ち切った。

ユカリの描いた夢の世界から、いつの間にか僕は消えていた。それとともに僕の夢も消え去った。そして僕は、自分の人生にピリオドを打つ決心をしたのだ。

どうやら僕はそれに成功したらしい。「計画性がない」僕にしては、一発でうまくできたことを喜ぶべきなのだろうか? ユカリだって、これを知ったらきっと僕を褒めてくれるに違いない。

ただ、幽霊になるのは想定外だった。
僕は幽霊など信じていなかったから。無神論者の僕は、死ねばすべてが終わりになると思っていた。無になると思っていた。霊魂などあるわけないと信じていた。でも、自分が幽霊になってしまった以上、もはや幽霊を信じないわけにはいかなくなった。

壁掛け時計の針は午前3時13分を指している。部屋の暖房は消えている。窓にかけた緑色のカーテンは閉まっていたものの、部屋は冷えきっていた。まあ、幽霊となった僕は寒さなど感じなかったが。

自分が死んだという実感はまったくない。ただ、今まで引きずっていた体を失ったためか、体が非常に軽い。いや、体はないのだから、体が軽いというのはおかしい。宇宙遊泳をしている気分とでも言えばいいのか。いやダメだ、それもおかしい。僕は生まれてこのかた、宇宙遊泳などもしたことがないのだから、そのときの気分なんて僕にわかろうはずがない。とにかく、・・・。どう説明していいのかわからない状態で、僕は部屋の中を浮いていた。

これから何をすればいいのだろうか。僕にはまったく思いつかなかった。とりあえず誰かが僕の死体を見つけてくれるのを待つしかない。でも、いったい誰が僕を見つけてくれるというのか?

ユカリはどうだろう?
まだ合鍵は持っているはずだ。でも、僕を振ったユカリがこの部屋に来るとは思えない。

実家の親は?
実家にはここ数年帰っていない。そのうえ両親と最後に電話したのさえ、いつだったか記憶も定かでない。

それでは大家さんはどうだ?
家賃は自動引き落としにしているし、預金残高はまだ残っているはずだから、家賃滞納で大家さんが僕の部屋を訪ねに来るのは、たぶん半年先だろう。

友人たちは?
ユカリと付き合い始めてから、大学の友人たちとの関係を自ら避けていた。

今や孤立無援と言える。季節は真冬だから、腐敗臭が外に漏れるのがいつになるのかもわからない。もしかしたら、発見されたときはミイラになっている可能性だってないとは言えない。

今から思えば、ユカリからは計画性のなさだけでなく、あきらめやすいところ、おっちょこちょいなところ、ビビリ屋なところなど、いろんな欠点を指摘されていた。ユカリといると、自分が欠点だらけの男に思えてしまう。だからこそ、僕にはユカリが必要だったし、ユカリなしで生きていく自信がなかった。ユカリのいない僕などあり得なかった。ユカリを失って生きていくなんて想像もできなかった。だから、僕は自らの命を絶ったのだ。

外は物音ひとつない静寂に包まれている。これからどうすればいいか、考える時間はたっぷりありそうだ。窓の外を北風が通りすぎる音が聞こえた。

そのとき、携帯電話がなった。
心臓が止まるのではないかと思うくらい驚いた。いや、心臓はすでに止まっているのだから、さらに心臓が止まることはないか。どうやら僕は幽霊になってもビビリ屋のようだ。

5回目の発信音の後、留守番電話が稼働した。
「私、ユカリ。もう寝てるよね。私、携帯をなくしてしまって、さっき見つけたばかりなの。カバンのいつもと違う場所に入れちゃったみたいで。まったくヨシ君のことをおっちょこちょいなんて言えないよね。電話もラインも何度ももらってたけど、返事が遅くなってごめんね。昨日はカッとなって、ヨシ君にひどいこと言っちゃったね。それについても謝らないといけないね。朝になったら、また電話するね。じゃあね」

いったい何がどうなっているんだ? 頭がクラクラした。ユカリは僕を振ったわけではなかったのか? それじゃあ、僕はなんで自殺しなきゃいけなかったんだ? 僕はとんでもない勘違いをしてしまったのか?
おっちょこちょいにも程度っていうもんがあるだろう。取り返しのつかないことをしてしまった。寒さは感じないはずなのに、体中を悪寒が走った。
                   <続く>

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