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ぬらぬら鉄棒

  葛飾北斎について、色々触れる機会があった。経緯は先に書いたものと同じようなものなのだが、「ヌらヌらヌののヌガー」というかるた札を作って、ぬらぬらをインターネット検索したからだった。

  な行、特に「ぬ」は面白い。音の面が大きいかと思うが、現代において、文字記号がソリッドで無機的なものであるのなら、「ぬ」は活字にしても、相当、においというか、ベタつきを保っていると思う。初めは「ぬめぬめ」としていた。「ぬの」は最初にあって変わらず、ぬたとか、ぬかという言葉も思い浮かんだ。「ぬめぬめぬののぬた」これがまずあった気がする。ただ、ぬらぬらという言葉が浮かび、その魅力に勝てなかった。ぬらぬら、「ぬ」と、ら行の冷たさが心地よい。この言葉を使った機会は、少なくとも文章にしたのは初めてなんじゃないだろうか。そう思わせてくれる。

  ぬらぬらを検索して、「鉄棒ぬらぬら」という言葉が上がって来たとき、最初は意味が分からなかった。覚えていないが、間違いなく脳には一瞬の空白があったはずだ。

  インターネットのページを読んで行くうちに、それが葛飾北斎の画号であることを知った。画狂老人卍という名は聞いたことがあったが、彼は生涯いくつもの画号を使っていたらしい。主に春画を描くときの名前が、鉄棒ぬらぬらだったそうだ。

  今、まさにこれを書いているときに、濡れた男性器の隠喩という観点も生まれたのだが、初めにわたしが感じたのは、むしろ肉体の反対に位置するような、何か宇宙船の部屋の内部にある、メタリックな金属の棒に、どこまでも純粋なオイルのようなものが、そこを滑っている感じだった。その金属の棒は、一つだけ、暗い空間に浮いている。

  わたしはこの名前に非常な知性を感じたし、おおかたの意見もそのようなものであるらしい。現代的、これが江戸時代の絵師の画号かという意見が見られた。現代的というよりも、この人は単純に、普遍的な一点を目指していたのだろう。そこに到達した途端、江戸時代も含んだわたしたちの住む歯車から浮かんで、その歯車がカチカチと動いているうちに、わたしたちが今いる現代が、そのライトの下に照らされる番になった、そういう気がする。

  今年は東京の六本木で北斎展もあった。かなり惜しいような気もするが、わたしは混雑した場所、特に人の多い美術館が嫌いで行かなかった。(何だか、何をしに来たのか分からない気分になる。)代わりにと言っては何だが、同時期の上野で開かれた「奇想の系譜展」を見に行った。それがとても良かったので不満はない。

  しかし、さすがに普遍的な存在となった北斎は、カチカチと動いてきたわたしの頭上にも、ライトを照らしてくれたらしい。インターネットの画面上であるが、絵を見ていった。素晴らしいというのは当たり前なので、今覚えている限り面白かった点は、彼が洋画を描いていたということだった。絵を見ていくうちに、モダンに見えるのは少し洋画っぽいからだろうかと思っていると、西洋絵画の技術も取り入れていて、実際に、作者不明で水彩画も描いていたらしい。その水彩画を見たときは、そういう思考があったなかだったので、心が沸き立った。いい絵だと思うし、単純に面白い。それにこの事は、彼の道すがらの、「何とかして」という意思を端的に伝えていると思う。

  絵について話せることは、残念ながらあまりない。そもそもわたしは狭覧弱記で、知識も経験もないし、感性はあってほしいと思うが、それを証明するものはない。恥を晒して言えば、硬質なような気がするが、柔和なところもある。無機的かと思えば、生命的な感じもする。ただ、どの絵も、ひとつ透きとおっている感じがした。おそらく以前に、何かしらの北斎の絵を実際に見てはいると思うが、そのときどう感じたかは分からないし、言葉にはしていない。果たして今のこの感想は、どのような意味を持っているのだろうか。

  主に見たサイト。芋を洗っている禿げ頭の男性の絵は、芋名月というような、里芋と月の関連性と、まさに丸いお月様のような見事な禿げ頭とを三つ並べた面白さがあるのではないか。芋と人と月と。晩年の絵ばかりだからか、どこか異次元的な感じを受けるものが多い。最後の自画像は、鬼気迫る、狂気的なというふうに言われているが、わたしは何だか自然な感じを受けた。

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