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命のゆくえ

かつて通った世田谷の飲み屋さん。マスターは手拭いを粋に使うシングルファーザーで、病死された奥様の忘れ形見の息子さんはよくカウンターで宿題をしていた。

初めて行った時、三種も突き出しが出て驚いた。すごいサービスだが、中に私の苦手なかぼちゃの煮付けが。私は芋栗かぼちゃが大の苦手なのだ。
でも、出されたものを残すのは意地にかけても出来ない。
口にすると。
「…ウソ。これ、美味しい❗️こんなの初めて食べた❗️マスター、これ特別なかぼちゃなの?」
訊くと私もよく利用する町の八百屋さんで普通に仕入れた物と言う。

通ううち、マスターの人となりが知れてゆく。
妻の死後、まだ幼い息子を育てるために収入のいい屠殺工場に勤める。が、
「ああいう仕事してるとね。なんか。疲れるっていうか」
それはそうだろう。家族を養い食べていくためとはいえ、日常的に他の生命を奪う仕事。精神に影響がないわけがない。私は当たり前に肉を口にしていた自分を恥じた。
マスターはそうしてお金を貯めて店を開いた。週に六日開け、定休日は知り合いのハンターから仕入れた羊(大型犬くらいの大きさ)を一頭捌く(このラムが名物でめちゃくちゃ美味しい)。そして、小学生の息子を連れてレンタルビデオ店に行く(何度か出くわした)。
あのかぼちゃが美味しかったのは、命を知っている人だったからに他ならないだろう。



それよりずっと前、西荻に住んでいた。今はないが居酒屋の名店があり、亡夫に連れられよく行った。
八歳上だった夫を始め皆うんと年上。二十代前半の私など鼻で笑われるかと思いきや。
そこは文系の仕事のかたが多く、よく酔い潰れている夫の横でまごまごしていると、皆優しく話しかけてくれた。飲兵衛は持ちつ持たれつというのは実家の家業で見てはいたが、当事者はつらい。
独文学者のどっかの教授はにこにこ、
「水音ちゃん、本は好き?」
私は真っ赤になりながら、
「はい。でも頭よくないから…童話ばっかり読んできて」
「何が好きなの?」
「エリナー・ファージョンです。全部持ってます。小学生から」
先生は目を見開いて嬉しそうに、
「ファージョン読むの⁉️ならケストナーとかも読んでごらん。きっと好きになるよ。あ、あとうちのかみさんの訳本、よかったら買ってやって」と、『ソフィーの世界』という本を勧めてくれた。

自宅マンションに「勝手に」入ってくる珍らかな蝶を常時約50頭遊ばせているというおじいさん(家が蝶道上にあったのだろう)。
池坊の生け花からユンボの操縦までこなし建築一級を持つ元造園の社長のおじいちゃん。可愛がってくれた土佐ハチキンの酒豪美女。有名雑誌の編集長を勤める鉄火肌の女性が、ほかの男性客と昔の映画のことで大喧嘩していたこと。
夫が連れてきたロック好きな後輩と私が音楽談義でつかみ合いの喧嘩になり、止められるも三十分後には
「やっぱあれいいよな」
「いいよな」と肩を組んで飲んでいたこと。


バーで飲み始めた頃。ディマンシェというその店の元デザイナーのバーテンダーは、毎回オーダーに三十分かける私に呆れてある日、私が入店するなり後ろの棚から分厚い『カクテル辞典』を出した。
「はい。水宮さんのメニューこれね。じっくり選びな」
彼からはあらゆるカクテルを習った。
突然向こうの紳士から「あちらのお嬢さんに」と一杯奢られた時の作法なども。
あと
「水音ちゃん。4杯までだよ?」
「へい」

ゴールデン街にかつて行っていた。あるバーで珍事に出遭った。
カウンターに悄然としている男の子がいる。常連の男性やマスターが心配そうに寄り添っている。
聞くと、地方から上京した途端、財布ケータイから全財産を盗まれて途方に暮れているという。それまでは地元のラーメン店で奴隷労働をしていて逃げてきたのだと。
常連さんはお弁当をいくつも買ってきてやり、マスターは自分の店のオーナーや他店にその子を住み込みで雇ってもらえないかと連絡しまくり、何もできない私は…持ち金を少し握らせ、彼の運勢をただで占ってあげた。悪いことはない、と思えたから自信を持って言えた。その子はすでにもう助けられている。「正直に泣きつける力、というのは、すごく重要なのよ。あなたはそれほど勇敢なんだから大丈夫」と。それじゃ占いじゃないけど。


愛しい人たちはいつも皆、気が長かった。
外の空気を吸いたくて朝5時に緑道を歩いた。すると美しい白髪の女性に出会った。杖をつき、「もうこんな足だけれど歩かなくちゃと思って、初めて外に出てみたの」と。
私はデビューおめでとうございますと笑いかけた。時はいつでも待っててくれるものですよね、と。彼女は少女のように初々しく、ほほ笑んだ。

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