見出し画像

めぐる夜桜


たまに通る団地の公園に、一本の桜の木がある。
団地じたいが古いので、桜もなかなか立派な古樹だ。
季節にはわざと遠回りして寄る。



その四月、スーパーの帰りに通り掛かると、水銀燈に浮かび上がる夜桜の下で激しく泣いている子どもがいた。私は駆け寄りたい衝動にかられたが……

(急に知らない大人が走ってきたら怯えてしまう。何気なくゆっくり行くんだ。)

いかにものんきな買い物帰りに桜を見に寄った風でぶらぶら近寄る。
妙だわ。
こんな時間に?
子どもは小さい。四つ?三つ?すっかり夜で他に子どもなど一人もいない。家族はどうしたのだろう?


水銀燈と花灯りに照らされたその男の子は、遠目でも分かるほど汚れていた。シャツも半パンも靴もくたくた。ひざから血が流れている。

「まあ。ぼく、転んじゃったのか。」
そっと近寄り、横にしゃがんだ。
男の子は発見された迷子特有の激しさでますます泣き叫んだ。絶叫に近かった。
ふいにその叫びの中にある「言葉」が解って、私は耳を塞ぎたくなった。

(おとー‼️おとー‼️どこー‼️痛いー‼️寒いー‼️おなかすいたー‼️ぼくひとりー‼️どこー‼️
おがーーー‼️)

言葉を発していたわけではない。だがそれは頭の中にサイレンのように響いた。


私は思わずひざをつき、子どもを抱いた。抱きしめても抱きしめても、火がついたように子は激しく泣く。
やがて、私もがまんできなくなって、いっしょに泣き始めた。



わああああん
わああああん
わああああん



私たちは泣き合うことで、甘い、やわらかい、ひとつのかたまりになった。


やがて泣き声は訴えるような、甘えるような、しゃくりあげに変わっていった。しゃべっている。状況を説明し始めたのだ。人間の言葉ではなくても。

「ウンウン。転んじゃったねえ。どれどれ。」

さわらずに見てみると、幸いすり傷程度だ。血はもう止まっている。
「きれいきれいしようね。すぐおわるよ。すーぐなおる。ちょっとがまんできるかな?」
携帯用のウェットティッシュを取り出して、砂や固まった血、汚れをそっと拭った。
「ウンウン痛かった痛かった。びっくりしたねえ。ひとりでよくがんばったねえ。えらかったねえ。はいおしまい。」
すぐひざはきれいになったが、ひっく、ひっくとまだ泣き止まない。

「ぼく、おうちどこかわかるかな?」
かれはしゃがんだままうつむきしゃくりあげ続ける。
背中をぽんぽん撫でさすっていると、ふいに見えた。
(3棟の4階。階段上がって二つ目の部屋だ。
……なんてこと。ゴミ屋敷じゃないの。…親は父親だけか。夜は仕事でいないな。
奥の部屋の布団に座って死んだ目でテレビを視ているのは多分、何才か上のこの子の兄。痩せて生気がない。手に大事そうに緑色のミニカーを握って。
ごはんはどうしてるの?)


私はふと思いついたかのように、男の子に言った。
「ぼく。ちょっとそこのベンチに座ろうか。いいものあげる。」
泣きじゃくる子をひょいと抱き上げた。子どもはされるがままに抱かれた。赤ん坊くらい軽い。小さいなあ。


桜の下のベンチに行って座らせ、横に座る。そしてスーパーの袋をがさごそさせた。
男の子はいつのまにか泣き止んでいる。興味深そうにじっと、見てくる。いたずら猫のように、まるい瞳で。
私はいたずらっ子のように笑って、袋を後ろに隠す。その中からさっと手品のようにパック牛乳を出した。
「これなーんだ?」
男の子の目が大きくみひらかれ、声にならない声を出してジタバタした。
(にゅーにゅー❗️のみたいー‼️ちょうだいー‼️ちょうだいー‼️)
「もちろん。でもその前に、お手々もきれいきれいしようね。」
驚いたことに男の子はおとなしくなり、きちんと座った。背筋を伸ばし、足をぶらつかせもせずに。両手はひざにそろえて置いている。まっすぐ前を向き、口を引き結んでいる。
(こうしないと食べ物がもらえない、って知ってるな。)

着ているカーディガンを小さな肩に羽織らせると、ウェットティッシュでかれのと私の両手を清めた。
(ストローないけど、こんな小さい子に直接飲めるかなあ?)
私には子育ての経験がない。こんな乳児に近いような子がどの程度、飲んだり食べたりでき、また口にさせても大丈夫なのかも不安だが、この子は飢えすぎている。
(つめたいけど、おなかこわさないかしら…)
「いい子だね。お利口さんだね。きれいにしてえらいね。痛かったのがまんしてえらかったね。はい、どうぞ」

差し出すと、さらに驚いたことにその子は、実に優雅に牛乳を飲んだ。ほそいのどがこくこく動くのを見守る。
ひとしきりごくごく飲むと、男の子はにっこり笑って言った。
「まいー。」
「そうだねえ。うまいねえ。じゃあ、お次は?」
ふたたび袋をガサゴソ。男の子のワクワクが伝わってくる。

「これはどう?」
自分のおやつ用に買った、ナッツ入りのチョコレートだった。男の子は狂嬉した。こんどははっきり口に出した。
「おかしー‼️食べるー‼️ほしいー‼️」
「じゃあ、座って。はい、あーん。」

ひと粒、指でつまんだ。
男の子は目をつぶって、ひな鳥のように口を大きく開けて待った。
チョコが口に入ると男の子は、見たこともないほど幸せそうな笑顔になって、
「うふ。」
と笑った。

胸が痛くなるほど可愛い。人間が、これほど美しい満足げな笑顔になるのを、初めて見た気がした。
私がこんな風に笑ったことはあったろうか。
そして涙と恐怖と苦痛に暮れていた瞳は、宇宙のように澄んで私を見ていた。射抜かれて、私はほとんどその子を恋した。


ひと粒ずつ、ひな鳥は食べた。
お菓子だけでは心配だが、半分ほど食べさせたところで男の子が落ち着いたようすになったので、家へ連れて行くことにした。


「ぼく。おうちに帰ろう。もう夜だもの。連れてってあげる。」
男の子はなんの疑いも見せずに私の腕の中に抱き上げられた。階段を考えるとおんぶの方がよかったかもしれないが、この子にはまだ抱っこが必要だ。


部屋に着くと、男の子は開いたままのドアを開けた。残った牛乳とチョコを入れたまま、ほかの食べ物も入った買い物袋をまとめてドアの中に入れて置いてしまう。
「はい、おうちだね。お入り。お兄ちゃん待っているでしょう。牛乳とかおかしとか食べ物、分けて食べてね。じゃあね、ちゃんとおふとんで寝るんだよ。」
男の子は、せつなそうな顔をした。
「おねえちゃんもくるの。くるの。ほくとにいにといるの。」
私の手を引っ張って中に入れようとする。
「私には私のおうちがあるから、帰らなきゃならないの。ごめんね。でもまた、遊ぼうね。」
男の子はきっとだよ、という目で、
「おねえちゃんち、どこ?」と訊いた。
なんかナンパされてるみたいだな、と思いながら、答えた。
「私のおうちはね。坂を降りて、お寺を過ぎて、竹林の前にある大きなお池のおうち。いつか遊びにおいで。」
男の子は、こっくりうなずいた。そして、振り返らずに中へ入った。



私は説明した通りの家へ帰る。
人々は大勢いる家だけれど、私にはゆうれいのようにしか見えないし、実際いないことがほとんどだった。
ただいまーと言い、暗い巨大な母屋の中に入り、また暗い長い廊下を進んで、部屋に入る。
二段ベッドの下の段の姉は幼稚園から帰ってもう眠っていた。
私は上段のベッドによじ登ると、体の皮を脱いだ。そして、三歳の姿に戻った。
さあ、もう眠らなければならない。


枕元の絵本を読みたいけれど、部屋の灯りは小さななつめ球のだいだい色の灯りだけになっている。それに私にはまだ字が読めない。それでも絵本は好きだった。私は決して眠らない子どもだった。


なつめ球の明かりは、ひくい声で、
「ぼんぼりー、ぼんぼりー」
と歌ってくれる。
でも私は眠れない。



夜中に、トイレに行きたくなった。
いつものようにそっとはしごを降り、真っ黒な川のような廊下を一人歩いて行く。
突き当たりに女湯、その手前右側がお手洗いだった。
でも、その晩はようすが違っていた。



女湯は北にあり、外にはお日さまもお月さまもお星さまも街灯もないから夜は真っ暗だ。
なのに、今夜は煌々と明るくて、それはどう考えてもあのぼろいお風呂場の中の電気じゃない。まばゆいくらいの光が満ちていた。ガラス戸のはげかけた青ペンキが光に透けていて、きれいだった。
その前に、誰かが立っていた。


その人は、人ではなかった。
はだかで、つるつるにはげてて、体にもまるで毛がなくて、股にもなんにもついていない。男の人でも女の人でもないのだ。そして、白塗りみたいに全身くまなく真っ白で、少し歳を取っていた。目尻に優しそうなしわがある。目はヤグルマギクのように深い青で、にこにこ笑って両手を広げて待ってくれていた。
私は嬉しくなってたたたと走って行って、
「おじちゃんだれー抱っこー❗️」
と抱きついた。
「おじちゃん」は深く、ただ抱きしめてくれた。



私たちは、真夜中の庭をおさんぽした。というより、気がついたらおじちゃんと二人、池のほとりにいた。私が
「おじちゃん、夜、あっちはやだ。」と
夜の森を怖がったのをちゃんと聞き届けて、ひらけた水辺に連れてきてくれたのだ。ただの一瞬で。


ゆっくり、私たちは池の周りを歩く。
池の一角に桜があった。
電気なんかなくても、夜の桜はちゃんと光る。ぜんぶの花びらが、生きた妖精みたいに光るし話してる。
おじちゃんは、それらと同じように、言葉ではない言葉でしゃべってくれた。私にはそっちの方が分かりいい。
「おじちゃん、まいごなの?おじちゃんち、どこ?」
おじちゃんは笑って、上を指さした。
そして、歌を歌ってくれた。


私も、抱き上げられて運ばれながら、いっしょに歌ってみたらすぐ歌えた。
ぼんぼりのさみしい歌よりずーっと、よかった。楽しくて、あったかで、うふ、と笑いたくなるような歌だった。
「おじちゃん。また遊びに来てくれる?」
おじちゃんは、青い目をさらに深くしてほほ笑み、その体はひときわ白く光った。
翌朝、私はきちんとパジャマを着て、布団の乱れもなく、目を覚ました。
おじちゃん、どこに行っちゃったんだろう。
また、ひとりぼっちの毎日になるのかな。


⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎


四十年以上経った。その夜待ち合わせに現れた人は、お仕事が忙しいのだろう。清らかな枯葉いろの作業着姿のままだった。


けれど明日はお休みだそうで、私もそうだったから、では一杯飲みませんかという話になったのだ。


何がいいかなあ。熱いお酒とおでんもいいし。
店に向かうためにふと彼が入った道は、桜並木だった。
私は思わず歩みを止めた。
「どうしたの?」
その人も足を止めて、振り返った。
その、少ししわのある目尻。そのたましいの白色。この夜桜。
四十年以上前のあの晩と同じように、それぞれ光り、ひそひそと話している花たち。
かれはとても優しく微笑んだ。うふ。という風に。


あの男の子が、あのおじちゃんが、帰ってきてくれたのがわかって、私も笑った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?