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ほんのわずかな「被災」でも、10年間忘れることはできなかった


3月になり、かの3.11にまつわるピックアップテーマが出てきたので、私自身が経験したあの日のことに思いを馳せてみようと思います。

はじめに断っておきますと、私は被害の大きい地域で被害を受けたわけではありません。また、親族に被災者が、というものでもありません。
すぐに普通の生活に戻ることができた私の立場として、被災経験者の皆様におかれてはどうか今、幾分かでも幸せな日々を送ることが出来ていたらと願うばかりですし、一時も早い復興を願います。

そのうえで、それでも私自身が経験したことを残すことに、あの頃の自分や、もしかしたら他の誰かも、幾分かでも救われることを信じて、書いていこうと思います。

「あの日」の私の立場

冒頭文でも書きましたが、私自身は東北をはじめとする甚大な被害を受けた地域に当時いたわけではありませんでした。

2011年3月11日、私は茨城県南地域にいました。
中学校を卒業したばかり、高校入学を控え、すでに合格証やら春休みの課題やらを貰っていた私は、自宅でのんびり過ごしていました。

震度は確か5弱か、5強か。被害がなかったわけではないが、数日で「ほぼ」元通りの生活に戻れるくらいのレベルでしたから、それほどひどい被害があったというものではありません。

それでも、いろいろな偶然が重なったがゆえに、10年経つ今も当時のことは忘れられない出来事になっている、というわけなのです。
「甘えんな」と言われてしまうかもしれませんが、少なくとも私自身がちょっとでも整理できるように、当時を振り返っていきます。欲を言えば、同じようなささやかな苦しみが、ささくれみたいに心に残っている人に、読んでもらえたらいいな。

当時の記憶

先述したように、私は当時自宅にいて、卒業したばかりだったしということでテレビを見て過ごしていたんじゃないかなーと思います。
広い家に私一人。パソコンやゲームは1日1時間と決まっているので、大きいテレビを独り占めして、だらだらとしていたところで、突然その時は来ました。

緊急地震速報もあったのかもしれませんがその記憶は曖昧です。今も鮮明に覚えているのは、聞いたことのない町内放送が流れ出したこと(ある程度の震度を超えると鳴ることになっていたようです)。今までに経験したことのない、大きく長い揺れを感じたこと。家の中のものに注意を払っていたなかで、なぜかパソコンデスクの棚に仕舞っていた替えのインクがひとつだけ落っこちたこと。見ていたテレビが消えたこと。そんなところです。

揺れが収まってから、やけに冷静にガスの元栓を確認して、退路を確保して、外の様子を伺ったりなんてしていましたので、やはり消防訓練というのは日頃からきちんとやっておくべきだなあ、なんて今となっては思います。

ちらほら、近所の人たちが様子を伺いに外に出てきていたので、ちょっと挨拶なんかして。
親もすぐに帰ってくるわけでもないので、家の中に戻って、震度やら状況やらを確認しようとテレビをつけようとしたら、テレビがつかない事に気が付きました。停電でした。

誰かに連絡取ったりしたのかな、あんまり覚えていませんが、その次の大きめな揺れが起こる前後にはテレビは復旧して、母が帰ってきたような記憶があります。ひとりの時間は、最初の揺れから1時間ほど。大変なことになっている、という知らせとともに母は帰ってきて、私もそこで母と一緒に、テレビ越しの津波の映像を目の当たりにすることになります。

家と仕事場が離れていた父、まだ小学生だった弟も帰宅してきたんだと思いますが、早々に家族の安否は確認できました。甚大な被害を放映し続けるテレビを眺めながら、時間を過ごした記憶があります。

停電はすぐに解消したものの、もうひとつの問題が起きていました。断水です。
たまたまお風呂の水がいくらか溜まっていて、数日のうちに給水車が来て、3日程度で復旧したのですが、この断水が個人的にはとにかく地獄の期間でした。

断水という非現実的な状況。加えて、髪が洗えないと汚れがすごく気になって悲しくなる(思春期なので尚更)。食事も非常時モードに。そして、テレビから流れ続ける悲惨な映像。さらに偶然が重なり、生理が重なりました。

まだ不慣れでうまく生理を付き合えていない頃だったのも災いし、自分自身の気持ちの落ち込みもどうにもできない。服は汚すし、でもその汚れをどうにかするための水はない。身体も洗えない。水をおいそれと流せない状況でトイレに行くことも憚られる。両親の尽力もあり、そんな状況は2日と続かなかったわけですが、それでも今も強烈に記憶に残る時間でした。

3日ほど経って、濁った水が水道から出てくるようになり、その後しばらくして元通りきれいな水が出るようになったときは、水がある生活のありがたみをひしひしと感じたことを思い出します。

復旧してからすぐの頃だと思いますが、散歩で外を歩いたら、道路に軽いくぼみができているのを見て、改めてその数日間が、それを引き起こした地震が現実であったことを強く感じました。

その後の自分

そういうことで、それほどの時間をかけずに「ほぼ」元通りの日常に戻ったわけですが、一方で、「完全に」元通りになるには1年ほどかかったなという体感があります。

地震の被害で、入学先の高校の体育館が使えなくなり、2年目を迎えるまで体育館なしで過ごしたからだと思います。
公立ながら立派な設備が揃っていて、場所が全くなくなったわけじゃなかったことが救いでありますし、私自身も文化部だったので運動部の方よりは被害を受けていないとは思うものの、身近に爪痕が残っていることを感じながら過ごした1年間は忘れられないでしょう。

そうして、私の生活は完全に元通りになり、広義な意味でも被災者でなくなったわけです。
ただ、私でさえ、心に残っている記憶は消えていないと感じることがあります。

地震が来ると、以前よりも色々考えるようになったし、うまくいえないんですが元気がなくなる感じもあります。
その地震が少し大きかったりすると、つらかった数日間のことを思い出して、あの頃にタイムスリップして落ち込んでしまうこともあります。
ついこの間の地震でもそうでした。

私自身が弱いだけなのかもしれないけど、当分このままなのだろうと思います。日頃意識していなくても、トリガーを引いたように思い出す、脳裏に焼き付いた記憶を抱えて、生きていくのだろうと思います。

最後に 10年という時を経て

時間が経てば風化して、忘れてしまう。

そういう考え方ももちろんあるし、私自身もそう思っていました。あんなに苦しかったし、つらい思いをした人がたくさんいる甚大な被害を引き起こした災害だったけれど、時間が経てば忘れてしまうのだろう、と。

正直に言えば、曖昧になってしまった記憶はあります。でも、こんなにも忘れられないものなのか、とも思っています。
私でさえこうなのだから、私以上に甚大な被害を受けた方はもっと。今も当時の記憶に苦しむ人も、私が思うよりたくさんいるのかもしれません。

正しく記憶し、思いを馳せることはとても大事なことです。どれだけの被害があったこと、今もまだ復興に向けて日々汗を流す人がいること、繰り返さないための知恵。忘れてはいけないこともたくさんあります。
でも、一方で、もしその記憶によって苦しむのであれば、少しでも当時のことを忘れられるように、私は祈りたいと思います。

#それぞれの10年

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