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連載日本史77 蒙古襲来(1)

「蒙古(もうこ)」とはモンゴル民族もしくはモンゴル人の住む地域を示す呼称である。「蒙(くら)い」「古い」という漢字を充てたのは周辺民族を「南蛮」「東夷」などと呼んで野蛮人扱いしてきた中華思想によるもので、日本もそれに倣っていたわけだ。13世紀、その「蒙古」に中国は席巻された。中国だけではない。モンゴル帝国は、高麗(朝鮮)、ロシア、中央アジア、中東にまで版図を広げ、さらにヨーロッパや日本にまで勢力を伸ばそうとしたのである。

モンゴル帝国の拡大(「世界の歴史まっぷ」より)

モンゴル帝国第五代皇帝フビライ・ハンは、中国北部を統治していた金を滅ぼし、高麗を支配下に置いた。さらに彼は、中国南部を統治していた南宋制圧に向けて、その経済力を削ぐために日本に国書を送り、軍事的圧力を示唆して臣従を求め、日宋貿易の断絶を図る。返書を出すべきだとする朝廷に対し、執権となった北条時宗は徹底して拒否の姿勢を貫き、九州の御家人を総動員して防戦体制の整備を急いだ。

文永の役関係地図(mapple.netより)

1271年、国号を「元」と改め、都を大都(北京)に定めたフビライは、日本への侵攻を企て、28000名あまりの兵士と900隻に及ぶ船から成る遠征軍を組織した。1274年10月、元・高麗連合軍は対馬・壱岐を攻め落とし、肥前沿岸を経て博多湾に攻め込んだ。いわゆる文永の役である。上陸したモンゴル軍と迎え撃つ幕府軍の死闘が繰り広げられ、モンゴル軍は船に乗って海上に一時撤退するが、暴風雨に遭って大きな損害を出した。結局、モンゴル軍は朝鮮半島まで撤退、日本側は大きな損害を被りながらも、何とか防衛に成功したのである。

福岡県・生の松原に残る元寇防塁跡(Wikipediaより)

文永の役の後、幕府は異国警固番役を定めて防戦体制をさらに強化し、九州の武士たちに防塁(石築地)を築かせた。一方、元は南宋を滅ぼして中国全土を統一、日本への再度の侵攻を図る。今度は軍を二分し、900隻4万人から成る東路軍と、3500隻10万人から成る江南軍を組織した。当時の世界最大規模の艦隊である。迎え撃つ幕府軍も武士たちを総動員し、軍船を北九州に集結させて臨戦態勢を整えた。朝廷は諸国の寺社に異国降伏の祈祷を命じた。1281年5月、まず朝鮮半島から東路軍が出航する。後に弘安の役と呼ばれることになる激戦の火蓋が切って落とされた。



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