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連載中国史56 中華人民共和国(1)

1949年、国共内戦に勝利した毛沢東は、首都北京において中華人民共和国の成立を宣言した。国家主席は毛沢東、首相は周恩来。翌年、中国はソ連と友好同盟相互援助条約を締結。同年に勃発した朝鮮戦争では、中国政府は義勇軍を編成して北朝鮮に軍事援助を行い、米国との対立を深めた。1954年には周恩来とインド首相ネルーが共同で平和五原則を発表。同年には憲法を制定し、共産党の一党独裁体制を確立した。

中華人民共和国の建国宣言(「世界史の窓」より)

1958年、毛沢東は第二次五ヶ年計画への着手とともに、大躍進政策を掲げ、人民公社を設立。生産手段の全てを国有とし、無理な増産計画を課して農村のインフラや生活基盤、さらには生態系そのものを破壊し、多くの自然災害と大飢饉を招いた。しかしながら、反対派を排除した毛沢東の独裁体制の下では、都合の悪い情報は揉み消され、失敗はひた隠しにされた。結果、被害は更に拡大し、2000万人にも及ぶ史上最悪の餓死者を出すこととなった。

大躍進政策下の出生・死亡率
左から安徽省・四川省・上海のデータ
(小島麗逸「現代中国の経済」より)

どんな政策にも問題点はあろうし完全な経済政策などありえない。しかし政策の実施過程において、その都度問題点を指摘するチェック機能が働けば、そこまで深刻な被害に至る前に軌道修正は可能なはずである。事実、大躍進政策の問題点を指摘する声はあったようだが、声を上げた人々は失脚させられ、毛沢東の意に添うイエスマンばかりが残った。責任追及を恐れた虚偽の報告が蔓延し、各地の悲惨な実態は覆い隠され、その間にも人々は次々と飢え死んでいった。毛沢東の後に国家主席となり、大躍進政策の後始末にあたった劉少奇は、この惨事を「天災三分、人災七分」と表現しているが、これでもまだ控えめな表現であろう。政策の誤りとそれを認めない独裁体制が、いかに大きな災厄をもたらすかという実例である。

チベット動乱関係年表(産経ニュースより)

外交的にも中国は曲がり角を迎えていた。1959年にはチベット動乱で、ダライ=ラマ14世がインドに亡命。ここにも民族対立のみならず、大躍進政策によるチベットの惨状が背景にあった。翌年にはソ連のスターリン批判に毛沢東が反発し、中ソ論争が始まる。独裁体制を敷いていた毛沢東としては、同じく独裁者であったスターリンを擁護せざるを得なかったのであろう。1962年には中印国境紛争が起こり、インドとの関係も悪化した。

中印国境紛争関係図中印国境紛争関係図(PHP総研HPより)

毛沢東の後継となった劉少奇は、共産党総書記の鄧小平らとともに、大躍進政策で混乱した経済の立て直しを図った。部分的に市場経済を導入しながら経済の動向を見て調整していく彼らの手法は、中国経済を次第に回復傾向へと導いたものの、毛沢東とその信奉者たちからは資本主義に走る「走資派」として批判された。やがて毛沢東は巻き返しを図る。学生たちを煽動し、劉少奇や鄧小平らの修正主義者を排除して、自らの手に権力を奪回しようと企てたのである。1966年、毛沢東によって組織された紅衛兵を尖兵として、プロレタリア文化大革命が始まった。中国を覆う、更なる大混乱の時代の始まりであった。

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