美化と人間性

障害者をやっていると、心が綺麗とか、素直で純粋だと言われることが時々ある。特に、我々ASD/ADHDを含む、生まれつき脳機能に障害を持つ人々はそういう体験が多いのではないかと思う。
そう言われたときの感情は人によってマチマチだと思うが、私個人としては「健常者」として生活していた子供の頃、腹黒いとか怠惰とか性格の悪さばかりを指摘されていたため、正直、まんざらでもないと思うことが多い。
まあ、同じ人間がそのまま大きくなったわけなので、世の中いい加減だなとは感じるが。

実は、心が綺麗とか素直で純粋というのは、ずっと私が定型発達の人たちに対して感じていたことだ。

彼らは、明確な意味がわからないことや、理不尽なこと、自分に利益のないことであっても、命令されればそれに従ってしまう。
彼らは、命令の内容に不満は言っても、命令に従わなければいけないこと自体は疑わない。家族や学校や仕事や、それらに付随するルールの意味をあまり疑うことがない。
好きなことがあっても、自分がそれを好きということ以上にそれがまわりからどう見えるかをとても大切にする。また、例え誰かに嫌なことをされても、嫌だと感じる、自分の感覚自体が間違っているのではないかというような不安をしばしば口にする。
自分の嗜好や欲望よりも人のことを大切にする、心のきれいな純朴な人たち。

彼らは、友達や家族の善意を、努力の意味を疑わない。
みんなが同じ価値観や前提をもっている、あるいは共有できる可能性があると信じている。善意さえあれば、多少軋轢があっても最終的には意思の疎通ができてお互いを幸せにすることができるという夢物語まで信じてしまう。
その姿はキラキラしていて、しかしちょっとだけ危なっかしく見える。

結局これは、アイドルはうんこしないっていうのと同じやつなのではないかと思う。アイドルは本当にうんこしないわけじゃないけれど、アイドルのツイッターには「今日はずっと下痢しててヤバイ」とかは書いてない。私たちだって、海外旅行に行った先でOh! From Japan!? Cool!!Ninja!!!とか言われたら、照れ笑いしながらついポーズを取ってしまうかもしれない。

でも、それらが悪い事かっていうとそうでもない。
夢を売る相手であるファンに生活の全部を見せる必要もないし、忍者ネタでひとしきり盛り上がって、そこから本当に仲良くなれるかもしれない。
違う生活圏で暮らす人間同士がすれ違う時の、いわば潤滑油のようなものだ。
私だって会う人全てに、今の職場に来てから1度も人と昼飯を食ったことがないとアピールする必要はないし、なんでお前らはそんなに人とつるんでるんだ!仕事に集中してないんだろう!!と食って掛かる必要もない。違う特徴を持つもの同士、お互いの理解できない部分もそれなりにやり過ごして、共存していくしかない。性格を特性と紐づけて美化することは、その1つの手段なのではないかと思う。

一方で、潤滑油は多すぎるとつるっと滑ってかみ合わなくなる。
私が彼らを従順で純粋な人たちだなと思い、そしてちょっとバカにしていた時(ごめんなさい)、彼らの中に仲間として入る意思はなかった。私の心の美しさ(笑)を褒めてくれる多数派の人たちもそうかもしれない。
昔母親に診断がついたことをカミングアウトしたとき、「でもほら、障害者はね、周りの人を笑顔にすることができるから」とフォローみたいな感じで言われたことがある。障害からくる私の生活力の低さを散々罵った彼女がそんなことを言うのはちゃんちゃらおかしいのだが、それをおいても、やっぱりもうこいつとは家族でいられないな、と思った。近くにいる人には対等な人間としてあつかってほしいし、(ASDの私が言うのもなんだが)意思の疎通ができる関係でいたい。

見下すのは勿論ダメだけど、見上げてもダメな時がある。それじゃあどうしたらいいのだろう。さっき、遅ればせながらR-1で優勝した濱田祐太郎さんのネタを見た。彼が「プリウスとか買ってみたいわけですよね」とか言った時に、おそらく完全に彼の狙い通り、私は内心で「なんでやねん!!!」とつっこみながらめっちゃ笑ったのだが、小難しいことは全部忘れてただの面白ネタとして消費している自分に気づいて、これがインクルージョンってやつか、と思った。うまく言葉では説明できないが、自分もあんな感じを目指していけたらいいなと思った。

あと冒頭で、レッテルにだまされる馬鹿どもめwwみたいな書き方をしたけど、診断により「こんなに大変な状態で良く頑張ってきたね」という評価を受けたことが私の行動に与えた影響は、決して小さくはない。人に優しくされることにより、幼い頃は自分以外のやつは全員〇してやると思っていた私が、少しは他者の幸福を願えるようになった。
●●な人は心が綺麗っていうけど全然そうじゃないじゃん!って思ってる人は、是非一度、ちょっとその人に優しくしてみてほしい。「ああ無情」のジャンバルジャンだって、神父さんが前科者のバルジャンをほかの人と同じように扱ってくれたことで正しく生きようと決意するのだ。
マジョリティーもマイノリティーもちょっとずつ「人間同士の対等なお付き合い」の範囲を広げて行けたら、「特に純粋とかではないけど、信頼できる良い人」とみなせる相手が増えていくのかなという気がする。

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