自閉症のことばと、ヤノマミの家

「自閉症だったわたしへ」という本を読んだ。著者のドナ・ウィリアムズは幼少期カナー型の自閉症といわれていたが、その後徐々に定型発達の人とのコミュニケーションを覚え、大学まで卒業した人だ。いわば、大先輩である。本には自閉症の人の内面が細かく書かれており、あまりにも幼少期の自分が考えていたことと似ているのでかなり驚いたのだが、なかでも言葉とコミュニケーションに関する考察がものすごく印象に残った。自閉症の人の言葉は音の連なりだけではなく微妙な動きによって表現されており、動きや音と意味のつながりは人によって違う。自閉症(傾向)の人同士で仲良くなろうとするときは、相手の世界を壊さないように、お互いの核心にいきなり踏み込まず繊細で婉曲なやり方でそっと近づいていくのだ、と。
ドナの書いた内容は、定型発達の人にとっては衝撃的なのだろう。残念ながら私はそれが彼らにとってどのぐらい奇妙に感じることなのかわからないが。
私は今、定型発達の言葉が話せる。チャットや文章でだけではなく、音だけでやりとりされる言葉もある程度意味と結びつけながら使えるようになってきたところだ。ドナは幼少期、彼らの言葉が話せないことでかなりひどい扱いを受けた。今も彼女と同じ理由で、同じような扱いをされている私たちの同胞は世界中にいるだろう。私は昭和生まれで、だいぶ欠落の理論にとらわれているので、どうしても「自分たち自閉症ピープルは支援される側」「できるやつには俺らの気持ちなんかわかんねーよ」と考えがちなのだが、ドナの考察を読みながら、捉え方を変えればうまくお互いをリスペクトしながら共存できるのではないかと思ったので書いてみる。

アマゾンの奥地に、ヤノマミという狩猟採集民族がいる。彼らは集落の中央にある広場を囲んで1つの大きな家を建て、村で暮らす家族の多くがその家で生活を共にしている。生活音も、家族の間に起こったことも全て筒抜けだ。一方、現代日本では家は1家族ごとに分かれて建てることになっている。仮にシェアハウスに住む場合でも、多くは1人ずつ個室があり、家族ごとの、あるいは個人ごとのプライバシーが守られることが重要だと思われている。

私にとって、定型発達の人の言葉はヤノマミの家だ。
ほとんど音のつながり方だけしか意味を持たず、特別に個人的なつながりや関心がなくてもその場にいる全員で共有できてしまう言葉は、壁もない、プライバシーもない巨木の柱と藁葺き屋根の家に見える。1人1軒ずつ、しっかりした壁とドアのついた鍵のかかる家に住む私たちにとっては、彼らがどこでもかまわずにずかずか歩き回るのは我慢ならない。最低でもドアを開ける前にノックしてほしいし、できれば事前に訪問しても大丈夫かどうか尋ねるのが人間らしいマナーだと本音では思う。
でも、その、自閉症ピープル的な礼儀正しさを定型発達の人たちに押し付けることはできない。例えば、もし日本人の誰かが、ヤノマミの村に狩りを習いに行ったとしたら、大きな家で全ての家族と空間を共有することになる。(実際そんな感じでヤノマミを取材して書かれた本は大変面白かった)その時に、「うわ、こんな粗末な家に泊まるんですか?専用の個室もらえないと無理っす!」とかは言わないだろう。たとえ自分と違っても、他人の文化は尊重しなければならないし、そもそもひとんちに泊めてもらおうとしているのに文句を言うのはあまり行儀が良いとは言えない。
同時に、逆もまた然りだ。ヤノマミの人たちが日本に遊びに来たとして、その時家族ごとにバラバラに住み、家の中でも1人ずつ部屋を持っている日本人を見て「うわ…こんな孤立して暮らしてるなんて、君たちはコミュニケーション能力ってもんがないの?人間としてありえないっしょ!」とか面と向かって言われたら、結構腹が立つと思うのだ。(※想像です)

この世界は定型発達の人たちの村でもあるし、私たち自閉症ピープルの村でもある。どちらの人たちも、基本的には自分たちのやり方を捨てる必要はない。
でも、定型発達の人たちは、そのスッカスカの家で生まれた強力な共同体のつながりを武器にして現代社会というすごいシステムを作り上げた。本当にあっぱれだ。私たちはそのシステムのおかげで、生まれ持った能力を食べ物や本に換えたり、鬱で動けなくなった時にヘルパーさんにご飯を作ってもらうことができる。だから、そんな彼らの作ったシステムを使うときには、彼らの文化にちょっとなじめない部分があっても、合わせなきゃいけないときがあると思うのだ。問題は、逆をあまり理解していない人がこの世には多すぎるということだが。

定型発達の人も、自閉症の人も、それ以外の人も、自分とは違う形の家に住んでいる人に会った時に、少しだけ異文化に対するリスペクトを持てたら良いなと思う。

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