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「子供に嘘をつかない」〜『ガンダム』の富野由悠季の発言から見えてくるもの

最近、社会学者・宮台真司さんの本『社会という荒野を生きる。』を毎日1項目ずつ読んでいます。

その中で一つ、noteで触れてみたいテーマがあったので書いてみようと思います。

60年代から70年代の子供番組

本書の第三章の中で今回触れようと思っている部分を要約してみます。

ーー60年代の『ウルトラQ』をはじめとした円谷プロ初期シリーズの特撮子供番組は勧善懲悪を否定し、「人間という悪」を主題としていた。だが70年代になると『仮面ライダー』などの勧善懲悪ものへと逆行した。60年代は茶の間で親子がともに視ることを想定していたから子供番組の質も高かった。しかしやがて子供が単独視聴する時代になると、子供だけでも理解できるように子供番組は質を落とした。そしてそれに引きずられるように製作陣そのものも劣化した。ーー

だいたいこういう内容です。さて、これはどういうことなのでしょう。少し解説してみたいと思います。

60年代の子供番組は大人の視聴にも耐えうる内容であり、子供番組であったとしても子供には理解が難しいことも時としてありました。

そういう時は親が子に説明したり考えを交わし合ったりするから、そこには家族間のコミュニケーションが発生します。それが毎日のように繰り返されるから家族の結びつきは濃密になるわけです。

逆に、家族のコミュニケーションが濃密だった時代だからこそ質の高い子供番組が放映されていた、ということも言えるでしょう。

ところが時代が進んで共同体や家族の空洞化が顕著になると、子供が一人でテレビを観ることになるから製作陣はターゲットを子供のみに絞ることになります。すると子供番組の質は低下するわけです。

言葉が悪いのを承知で言わせてもらえば、要は「ガキむけ」の内容になっていったのです。

「子供番組」なんだから「ガキむけ」で当たり前じゃない?

そう思った方にはなおさらこの記事を読んでほしいと思います。

「ガキむけ」と「子供むけ」は本質的に異なるものなのですから。

富野由悠季の言葉とその制作姿勢

宮台氏の本の先述の箇所を読んだ時、僕はあることを思い出しました。それは『機動戦士ガンダム』の監督である富野由悠季の発言です。

「子供に嘘をついてはいけない」

『ガンダム』は体面としては子供をターゲットにしていますが、実際には小学生以下には本質的な部分の理解は難しい内容となっています。

大人でも何度か見返さないと話を把握できないですし、見るたびに新しい発見があります。また、何度も見返すたびにそれまでとは異なる解釈を得ることもあります。

ではなぜ『ガンダム』は子供番組なのに難しい作りになっているのでしょうか。

それは富野由悠季という人が「アニメであっても子供に嘘をついてはいけない」つまり「ガキむけ」ではなく「子供むけ」のアニメを作るべきだという矜持を持っていたからに他なりません。

「ガキむけ」と「子供むけ」は違うもの

ここで「ガキむけ」と「子供むけ」の違いに触れます。

「ガキむけ」とはどういうモノか。それは、おもちゃ会社やテレビ局の慣れた大人が、「しょせん子供の観るものでしかないんだからこれで十分だろう」という程度の意識で作った代物です。

別にそれが悪いとは言いません。当時のアニメはおもちゃ会社の販促的な側面が大きかったため、おもちゃが売れなければアニメも作れません。必要悪的なところもあるわけです。

しかし、そういった「ガキむけ」を作る慣れた大人が子供たちに対して真剣かどうかは疑わしいところがあります。富野氏の言葉を借りれば「子供をナメている」ようにも見えます。

一方「子供むけ」とはどんなモノか。それは、子供に対して真正面から向き合い、人間や社会の本質を描き、善と悪を大人の都合で意図的に描き分けるのではなく、あくまで「自発的に考えることを子供に促す」ような作品です。

これは大人が子供の感受性や想像力を信用していないとできないことです。

子供をおもちゃを買ってくれるガキとして扱うのではなく、一人の自律した人間であることを認め、わざわざ自分の作品を観てくれる一人格である、ということを自覚しながら作品を作る。

つまり大人をターゲットにした作品づくりと変わりない作り方をするのです。

これこそが「子供むけ」作品の作り方であり、イコール「子供に嘘をつかない」ということだと僕は思います。

富野由悠季と『鉄腕アトム』

もともと映画監督志望だった富野氏でしたが当時の映画会社は不況で就職口がなく、1964年に手塚治虫のアニメ会社である虫プロに、氏曰く「仕方なく」入社しています。

これはちょうど『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』が放映されていた時期で、富野氏は『アトム』の演出家として最も多くの本数に携わっています。

ここで面白いのが、他の演出家が「ガキむけ」…富野氏が言うところの「電動紙芝居」… に傾きがちな一方で、氏は『アトム』を「子供むけ」にすることに執心しているところです。

彼の演出家としてのデビュー作は64年の『アトム』96話『ロボット・ヒューチャー』。詳しくは調べてもらえばわかりますが、この話、今観てみても明らかに「ガキむけ」ではなく「子供むけ」です。

『トリトン』から『ガンダム』へ

富野氏の監督としてのデビュー作は手塚漫画『青いトリトン』を原作としたアニメ『海のトリトン』

耳馴染みのある方も多いでしょうが実はこのアニメ、手塚漫画版を原作にしているとは言っても、それはキャラクターや設定など一部だけで、話自体はほぼ別物になっています。特にラストは衝撃的で、とても子供番組とは思えない心に重くのしかかるようなエピソードで幕を閉じます。

これも『トリトン』を「子供むけ」として作りたかった富野氏が意図的にしたことだと思いますが、放映されたのは1972年。

ちょうど子供番組がますます「ガキむけ」へと加速していた時代です。

世間では『マジンガーZ』や『ゲッターロボ』といった勧善懲悪型、熱血漢が主人公で、得体の知れない異星人や古代人が、ナゼか毎週律儀に一体ずつ敵ロボットを送ってきて、主人公は毎度苦戦しながらも最後は必殺技で敵を倒してチャンチャン、というお決まりのパターンが人気でした。

ですから案の定、『トリトン』の視聴率は振るいませんでした。子供たちが期待していた内容と違ったのか、はたまた「スーパーロボット」や「正義の味方」の掛け声に慣れすぎていたのか。ともあれ『トリトン』は彼らにとって全く異質な存在だったわけです。

以降、富野氏は70年代に『勇者ライディーン』『無敵超人ザンボット3』『無敵鋼人ダイターン3』などのロボットアニメの監督を歴任しますが、ロボットものであってもあくまでも「子供むけ」にこだわり続けています。

そして1979年。ついに『機動戦士ガンダム』を産み出しました。この作品はあまりにも「子供に嘘をつかない」ということにこだわった結果、おもちゃを買う低年齢層にはウケず、スポンサーの意向で打ち切りとなっています。

しかし、『ガンダム』はアニメ界において新しい突破口を切り開きました。「ガキむけ」ではなく「子供むけ」のアニメが逆に子供たちの琴線に触れ、すぐには理解できないがいつかわかる時がくるはずの「漠然とした違和感」や「心の引っかかり」を子供の心に残すそういうアニメの作り方に成功したのです。

初回放送ではなかなか受け入れられなかった『ガンダム』ですが、再放送以降はファンを増やし、やがて大ブームとなります。

これを端緒とするのが80年代〜90年代の「リアルロボット」アニメブームであり、95年の『新世紀エヴァンゲリオン』でひとまずの落着を見ることになります。

「子供に嘘をつかない」ことの大切さ

富野氏は「ガキむけ」が氾濫した時代であってもそれに抗い、「子供むけ」つまり「子供に嘘をつかない」アニメづくりを貫き続けました。そして1964年の業界入りから15年、ようやくそれが実を結んだのです。

富野氏の作品は数多ありますが、2020年に迫ろうとしている現在でも多くの大人に毎日のように語られています。

それは『ガンダム』などの富野作品によって幼心に植え付けられた「違和感」「ひっかかり」が、大人になっても残り続けているからだと僕は推測しています。原因はもちろん富野氏の意図によるものです。

富野氏の子供に対する真摯なアニメづくりの姿勢は確実に子供に伝わっています。そのことを当時子供だった現在の大人は無自覚に自覚しているのでしょう。

大切なことはガンダムと富野由悠季から学んだ、という大人は多いはずです。僕もその一人。

これはアニメに限らないことです。

「たとえ相手が子供であっても嘘をつかない」

これこそが、大人が子供にしてあげられる最大の大切なことだと僕は思います。

その時はわからなくても、いつかわかる日がくるのだから。


もくぼん

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