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[理系による「アート」考察] 俗世からの一時逃避、としての苔寺

"苔生す"、という日本語があるぐらい日本人は"苔"というものに特別な何かを感じています。

この感情は欧米にはないもので、これは具体的に何なのか?、を考察するために、鎌倉の妙心寺に行ってきました。

結果、俗世からの一時逃避、のために"苔"というものを捉えている・使っている、というが今の自身の推論です。

その根拠は"苔"が広範囲に深く広がるためには、
・時間がかかる
・人が立ち入らない必要がある
の条件が必要だからです。

具体的に、下の写真ですが、趣はあるのですが、通路には苔が生えておらず、それは人が踏みしめたからであり、どうしても人の気配を感じてしまいます。

通り道に人の気配を感じてしまう

一方、次の写真は、全体的に苔が深く広がっており、人がこの場を歩いていないことが感じられます。

人の気配が感じられない

よって、長い期間、人がここに立ち入っていないことが感じられ、人間の気配・存在を忘れることができ、我々が住む俗世とは違う異空間が演出されます。つまり、この空間を訪れることで、他者と交わりによる生じる煩悩に苦しむ俗世から、一時的ですが逃避することができるのです。

煩悩からの解放、は仏教のテーマであり、だから苔寺なるものが日本では存在するのか!、と個人的に納得しました。

実際、この空間にいると、鳥の鳴き声や風の音を含む"自然"しか感じることかできない、なんとも不思議な気分になりました。

ちなみに、苔寺で一番有名なのは京都の西芳寺で、実は20年ほど前に参拝したことがあります。確かに広大な苔の空間が広がっているのですが、良く管理(掃除)してあるため、逆に人の気配を感じてしまいました…。

恐らく、西芳寺は、俗世からの一時逃避、というよりかは、竜安寺"石庭"と同じ、自然を抽象化したもの、の捉え方の方が正しいと思われますが、それはまた別で考察したいと思います。


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