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巨人の肩の上で肩車をしようじゃないか

人間はこの地球の支配者であり神である、などと言うつもりは毛頭ないが、ヒトという生物が他のあらゆる生物とは大きく異なるのは間違いないだろう。
火を操り、電気を作り、海を陸に変え、大気圏の外へ旅行する、こんな生き物は他にいない。

では、一体何がそんなにも違うのだろうか。
これにはいくつもの要因があると考えられるが、私が思うに、最も重要なのは「知識の外部保存性」である。


知識の外部保存性というのは、獲得したスキルを身体(脳)の外部に保存できるということである。

それらにどれほどの情報量を乗せることができるのかは分からないが、
ヒト以外の生物も、鳴き声やフェロモン等を用いてコミュニケーションを取ることはあるようだ。
つまり、「言語」を用いたコミュニケーション自体は、ヒトの専売特許とは言い切れない。

人間特有の武器として機能しているのは、言語そのものよりも、文字や図、あるいは数式や写真や動画による、知識の「外部保存」であろう。
これによって、空間や時間を超えて知識を共有することができる。
これのお陰で、千年前にギリシャの偉い人が発見した理論だって学ぶことができる。

同一の生物種であれば、個体単位での基礎的な身体能力・知的能力が、世代を重ねるごとに「成長」するということはない。
これは、ヒトも例外ではない。
一個体が一生をかけてその身体や知能を強化しようとも、
それが次の世代に受け継がれて、既にある程度強化された状態からスタートするということはないのだ。

ただし、それはあくまでも「生物的には」という条件付きである。
人類は、先人たちが積み重ねてきた発見や経験や他のあらゆる知識を用いて、様々なテクノロジーを発展させてきた。
知識の外部保存によって、人類は不可能を可能にし続けている。


だとするならば、我々がヒトでいる限り、先人が残したものから学ぶことを止めてはならない
そして同時に、発見したこと、気付いたこと、経験したこと、創ったこと、それら全てを何らかの形で保存しておかなければならない

とにかく学べ。巨人の肩に登れ。
巨人の肩の上で、子供を肩車してやれ。

私達は巨人の肩に立つ小人のようなものだとシャルトルのベルナールはよく言った。私達が彼らよりもよく、または遠くまでを見通すことができるのは、私達自身に鋭い視力があるからでも、他の優れた身体能力があるからでもなく、ただ彼らの巨大さによって高く持ち上げられているからなのだと。
    ―― John of Salisbury(1159)『Meralogicon』 III, 4. より

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