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【書籍紹介/海外文学】1万年の時を超えるアットホームドラマ

なんだか急に暖かくなってきて、逆に体調を崩しがちなM.K.です。
前回もまた長すぎる記事を書いてしまい反省しています。今回は短く気楽にいきたいと思います。

もともとノンフィクションしか読まない(読めない)人間だった私が、ささやかながらフィクションの海に漕ぎ出したきっかけの一つはSFとの出会いであり、特に『1984』のようなディストピアSFが今でも大好きなのですが、
何を血迷ったのか、最近アーシュラ・K・ル・グウィンの短編集を買いまして、SFとファンタジーの接合点を行き来するような作品の数々を読んでいます。
ファンタジーってSFとは水と油と関係と思っていたけど、案外相性が良いもので、これはこれで一つのジャンルを形成しているなと感じました。

というわけで今回紹介するのはこの短編集です。

『風の十二方位』
アーシュラ・K・ル・グウィン

ル・グウィンといえば『ゲド戦記』の作家ですが、実はSFの旗手でもあったんですね。そんなこと全然知らず、例によって某文学系ポッドキャスト番組に教えてもらいました。

この記事で考えてみたいのは、短編集の2作品目「四月はパリ」です。以下、あらすじです。

中世フランスの詩人の生涯を研究する、冴えない研究者のバリイは、アメリカの大学から長期休暇を貰ってパリのアパルトマンに燻っていた。
独自の理論で万物の「第一の元素」を探究するルノワールは、自身の学説に自信が持てず、パリの自宅で一冊の魔術本を開く。
ヤケクソになりながら床に五芒星を書き、魔術本に書かれた呪文を適当に唱えると、星の真ん中に男が立っていた――それがバリイだった。
バリイは突然現れた古めかしいフランス語を話すルノワールと、テーブルの上に置かれた魔術本から、自分が過去にやってきたのだと悟る。
実に1961年から500年近くもタイムスリップし、まだ建てられたばかりの真新しい自分のアパルトマンを瞠目する。
ルノワールは、バリイが未来から来たと知って俄然興奮し、自然科学のあれこれを尋ねるが、畑違いのバリイは高校化学の知識で応えるしかない。
バリイもルノワールに、自分が研究する詩人の生涯を尋ねるが、想像よりも平凡な最期だったことが分かる。
それでも学者同士意気投合し、二人は硬い友情で結ばれ、幸福の日々を過ごしていた。
ある日、酒に酔った二人は、面白半分で女性を呼び出そうとして再び魔術本を開く。
へべれけで呪文を唱えると、五芒星の真ん中にみすぼらしい姿の女性が立っていて、なんとラテン語で喋りはじめた。
彼女――ボタは、帝政ローマ時代に北ガリア(つまりフランス)の郡長官の屋敷に仕えていた奴隷だった。
奴隷特有の行き過ぎた従順さで、彼女は突然の状況にも無抵抗。さっさと自らの境遇を受け入れてしまう。
しかし人間として接してくれる二人と過ごしていくうちに、奴隷根性が抜けきって聡明な女性となり、ボタはバリイと恋仲になった。
別の日の夜、ルノワールは二人に内緒でまた魔術本を開き、白い子犬を呼び出した。
首輪にジョリと記された犬は、すぐにルノワールになついてくれた。
続けて彼は、また呪文を唱える。
翌朝バリイが起き出してみると、ルノワールが見知らぬ女性と話していた。
背が高く、銀の衣装を身にまとう朗らかな女性――キスルクは、なんと7000年後の未来から来たアルタイ人だという。
彼女はパリの古代遺跡を発掘中の星間考古学者で、碑文で学んだという発音がめちゃめちゃなフランス語で話す。
耐え切れずバリイは、いったいどういう理屈でこんなことが起こるのかとわめき始めるが、
彼もルノワールもボダもキスルクも(そして多分ジョリも)、現実から見放され孤独のうちに燻っていたことが分かる。
孤独を抱えた4人と1匹は、集うことで人生の幸福を取り戻し、揃って中世フランスの街へお出かけに行くのだった。

いわゆるタイムスリップもので、この爽やかな後味はどことなくハインラインの『夏への扉』をほうふつとさせます。
またあらすじではほとんど削ぎ落としてしまいましたが、細部まで情景描写がしっかりされていて、児童文学のようなプロットにも関わらず妙なリアリティもあります。
ルノワールのアパルトマンに暮らしていた過去と未来の人々が一堂に会し、仲良く楽しく暮らすという物語は、なにか人間賛歌のようにも思えて、読者をもエンパワメントさせてしまう力を感じます。なんだか久々に気持ちのいい読書体験でした。

リベラルアーツへの礼賛

この作品は、自分の研究に自信が持てないくたびれたオッサン研究者二人が500年の時をこえて出会うところから始まります。こう書くと妙にロマンチックだな……。
バリイは中世フランスの詩人の研究をしていて、彼がどのようにその生涯を閉じたのか独自の学説を持っているのですが、そんなことほとんどの人間にとってどうでもいいことだし、大学からも冷遇されています。
ルノワールは、万物を構成する元素のうち、第一の元素は何なのかという、証明しようがない難題に取り組む在野の研究者で、自説の正しさを信じきれないし社会から評価もされていません。
二人ともいわゆる「実学」ではない領域を研究していて、半ば現実から見放されている。一生懸命研究しているんだけど、その価値を社会は全然理解してくれないし、彼ら自身、その研究が社会の役に立ちそうもないことが分かってて気を揉んでいます。
そんな共通の悩みを持つ二人が出会い、めちゃくちゃ仲良くなるのも頷けます。

ただ、彼らの学識が結果的に1万年の時を超えて集まった4人を結びつけるのです。

バリイもルノワールも研究のためラテン語を話せたから、帝政ローマ期からきたボダと意思疎通ができました。もしボダが当時のローマ皇帝の名前を言えたなら、具体的に彼女が何年前から来たのかも分かったでしょう。バリイがボダと恋仲になれたのも、彼が帝政ローマ期の知識を持っていたからに違いなく、「ラテン語」「歴史の知識」といった実学ではない知識が大活躍した瞬間でした。

また未来から来たキルスクは、碑文で学んだフランス語を話しますが、これだって彼女の世界では全く実用性のない知識です。でももしフランス語を話せなかったら、その場にいた誰一人とも意思疎通できなかった。そして、バリイとルノワールは彼女のフランス語をラテン語に翻訳してボダに通訳してあげられる。彼ら全員のリベラルアーツが、未来のアルタイ人と古代ガリア人が言葉を交わすことを可能にしたのです。

これは昨今の実学主義へのアンチテーゼに違いないですよ。哲学畑出身の私もなんだか励まされました。


ユーモアへの礼賛

作品全体を通してユーモアに溢れていて、というより"小難しいことは全部無視!"の楽観主義すら感じます。
例えば魔術書を開いて呪文を唱えるシーン。
本当に真面目に呪文を唱えたのはようやく3回目からで、それまではヤケクソだったり泥酔したままやっている。
時空を超えて人間を呼び出すという一大事業に対して、あまりにも適当なのが面白い。
誰一人、自分の元いた世界のことを心配する奴はいないし、なんだかんだ中世フランスの社会に溶け込んで、ボダなんか立派なパリジェンヌみたいになってしまう。
年齢も性別もバラバラなんだけど、みな知識欲みたいなもので結びついていて仲良し。
新参者にも興味津々で親切。
生活費は、バリイが持ち込んだ腕時計を中世フランスの質屋に入れたら1年分の生活費が入ってきちゃった。
中世ではID管理もされていないから、遠くから親戚が来たよって言うだけで、ご近所関係もオールOK。
ホントに、毎日わちゃわちゃ楽しく過ごすアットホームドラマの第一話って感じなんです。
SF脳の私はついついタイムパラドクスのことや、1万年以上開きのある人間同士が、たとえ言葉が通じたからといって本当に意思疎通できるのか、といったことをシリアスに考えがちなんですが、それらをものともしない頑強なポジティブさに元気を貰えました。

SFとファンタジーの違い

私この話題が大好きなので最後に語らせてください。SFとファンタジーは何が違うのか。
よくこの例を使うのですが、例えば私は、『ハリー・ポッター』はSFだと思います。思いっきり魔法の世界なんですが、一方であの世界は第一次・第二次世界大戦を経験していて、魔法の世界はガッツリ現実世界(=マグルの世界)に内包されています。各国のガバメント(魔法省など)も存在していて、大戦中は核エネルギーをめぐる駆け引きもあったという設定であり、現実の社会制度の制約を受けまくっています。これは歴史改変SFだと私は思っています。
つまり、SFはその創造性が物理法則や社会制度に制約される。一方ファンタジーには一切の制約がない代わりに、それらを(部分的にでも)一から生み出す必要がある。
ちなみに私はSFの方が断然好きなのですが、それは、こういう重い制約がある方が、クリエイティビティの可能性を感じられるというか、制約を掻い潜って生まれたアイデアを目の当たりにした時に、人間の創造力の逞しさを感じられるからだと思います。

ある友達はファンタジーが苦手なのですが、その理由をこんなふうに説明していました。
物事が「そのようである」ことの理由付けが不十分なままにされるのが苦手で、しかしファンタジーは往々にしてそうである……と。そういう点で、SFの方が好きだと言っていました。
SFは説明の文学です。読者がついていけるか否かに関わらず、そこに首尾一貫した理論や法則があり、それは現実社会の科学の蓄積が正しさを担保してくれている。
この感覚、すごく共感できます。

また別の友達は、全く違う角度から説明してくれました。
「作られた世界」と「偶然生まれた世界」の二つがあったとして、自分は「偶然生まれた世界」の方に魅力を感じる、と。
現実世界は、誰かが(例えば一神教における人格神が)すべての動植物をデザインしたわけではなく、無数の偶然によってたまたまそう在るのであり、トンボの羽が美しいのも、バラが香しいのも、誰かがそうあってほしいと願ってそう在るのではない。でも、だからこそ一層いとおしく感じるのだそうです。
ファンタジーは現実世界とのつながりを一旦断ち切って、作者が一から世界を作り出すジャンルであり、現実世界の「偶然性の美しさ」をそのまま利用することはできない。
それらに相当するような素晴らしい世界を一から創造する必要があるのですが、いかんせん一人の人間の創造力では限界があります。
実際のファンタジーには現実世界によく似た生物――ル・グウィンなら翼の生えた虎とか――がたくさん出てくるし、現実世界からたくさんアイデアを借りてきて、それを自分好みにアレンジする、そこに恣意性を働かせる、そういうジャンルです。
「偶然性の美しさ」と、人一人の創造力を対比した時に、どう頑張っても前者の方が魅力的だ、というわけです。

ル・グウィンの作品はSFとファンタジーの垣根を無くす、両者の橋渡し的なものが多いのですが、上記の条件で判断するなら、一応全てファンタジーだと言えそうです。
前述の通り、私はハードなディストピアSFが好きであり、SFの制御された創造力に魅力を感じていて、ファンタジーの自由奔放さに着いていけないタチでしたが、「四月はパリ」は凄く面白く読めたし、実は著者の他の作品もけっこうイケました。
他の作品、100%純然たるファンタジーのものも結構あったんですが。

うーん、もしかして今年あたりファンタジー熱が来たりするんだろうか……。

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