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【書籍紹介/日本SF】空想部族の空想言語vs文化人類学

※今回紹介する本、私はメッッチャ面白い!と思って選んだのですが、会社の先輩にあらすじを話してみたところ「難し過ぎて分からん」という反応だったので、うまく書ける気がしません!
ひたすらつまらん記事になるかもしれないのであらかじめご了承ください!


こんにちは、社会人になってからなぜか文化人類学にハマったM.K.です。

文化人類学といえば、まずマリノフスキーの「クラ」がどんな教科書にも最初の方に載ってると思います(すいません、長くなります)。
飛行機が飛ばずにトロブリアント諸島で釘付けになったマリノフスキーは、現地に長期滞在して調査するという今の文化人類学の研究スタイルを確立したとも言われています。
環状の珊瑚礁の島々からなるトロブリアント諸島で執り行われている「クラ」は、「ムワリ」という首飾りと「ソウラヴァ」という腕飾りを、島を跨いで交換し合う行為。だからムワリとソウラヴァが、それぞれ時計回りと反時計回りに島々を巡っていきます。
島と島はしばしば外洋で隔てられ、木製のカヌーで航海するには大きな危険が伴います。その危険を冒してまで彼らが交換するのは、首飾りに腕飾りという、日常生活に全く役に立たない装飾品なのです。
マリノフスキーからしたら「は?なんで?」です。「金にもならない、物資や食料と交換することもできないものを、何でそんな必死に交換しあうの!?」
実は「交換行為」そのものが重要だったんです。
この成果は、のちにマルセル・モースの『贈与論』やレヴィ=ストロースの構造主義などに結実し、人類社会の普遍性について考察するための強力な理論を提供したのでした。

……というのが現実世界の文化人類学のお話で、なぜ急にこんな話するかというと、今回紹介したい作品は、現実の文化人類学的知見を踏まえた上での、仮想の部族の仮想言語にまつわるお話だからです。

今回紹介するSFはこれです!

樋口恭介 編
『異常論文』

かなり異色の日本SF短編集です。
目次から既に論文集の体で、タイトルもたとえば「フランス革命最初期における大恐怖と緑の人々問題について」(高野史緒)といった風に論文調です。
この中から考察してみたいのは次の作品です。

青島もうじき
「空間把握能力の欠如による次元拡張レウム語の再解釈およびその完全な言語的対称性」

何だか自分の修士論文を思い出すほどのタイトルの長さです。以下、あらすじです。

あるとき"未開民族"のレウム族が発見された。
彼らは遺伝子の関係から、構成員全員が聴覚障害を持っていた。彼らにとっての言語は、15×20㎜四方の石板に炭で書いた「レウム語」で、この言語について、先行研究やフィールドワークの内容が提示されている。
まずレウム語は音読できない。聴覚異常のある民族の言語は、声に出して読む必要がないから。
さらに、石板に文字を書いた後、石板を立てたり回したりする。これが彼らにとっての文法表現となる。石と人を表す文字を書いて石板を立てると、「手に持っていた石を持ち上げる」という意味になる。
2049年にはレウム族の7歳以下の子どもたち全員に空間拡張ARデバイスが配られ、子どもたちは石板ではなく仮想空間上にバーチャルの文字を書き、3次元空間を自由に動かすことで、「次元拡張レウム語」が誕生する。
その子どもたちの中に、ディジュラとフラートという双子の姉妹がいて、フラートは先天的に空間把握能力に異常がある。
レウム族にとっては空間把握能力≒言語能力なので、フラートはそのままでは他者とコミュニケーションを取ることが出来ないのだが、
ディジュラはフラートと会話するために「次元拡張レウム語」をさらにブラッシュアップし、姉妹の間だけに通じる言語を発達させた。
それは虚数i方向に空間拡張した5次元レウム語ともいうべきもので、その言語やディジュラの脳波を解析すると、さらに驚くべきことが判明するーー。

この作品には考察しがいのあるフックが山のように詰め込まれていて何時間でも語れそうなのですが、今回は以下の5点について考えてみます。

①先天的聴覚異常の部族集団
②「レウム語」が音読できないこと
③レウム族とのファーストコンタクトの問題
④"未開部族"と先端科学技術の親和性
⑤構造主義的言語学の観点から
⑥「次元拡張」のワクワク感


まず、①先天的聴覚異常の部族集団について。
この部族は構成員全員が聴覚障害者なので、言語をはじめとした社会構造が、"聞こえなくても良い"ように作られている。ここはノーマライゼーションの議論にも繋がってくるように思います。車椅子で生活する人が多数派なら、社会はそれに適応して作られて、立って生活する人の方が不便を被り"障害"と見なされる、というような。
血族間の婚姻を繰り返したため、聴覚異常が遺伝され続けているという設定ですが、遺伝子は突然変異するものなので、たとえば、本当は聞こえているけど聞こえていないフリをしている、あるいは「聞こえる」という事をどのように捉えればよいか分からず皆と同じように暮らしている個人が、もしかしたらいるかもしれないですよね。
聴覚を持たずして、異民族の襲撃などをどのように察知し躱してきたのかを考えると、もしかしたら集団内に一人か二人は聞こえる人がいたんじゃないかと勘繰ってしまいます。
しかし社会は聴覚障害者に適した作りになっている。
もし聞こえている個人がいるとしたら、彼らが見る「音のない世界」の光景はどのようだったか。そしてどれほどの疎外感を味わっていたか。勝手に空想が捗ります。

②レウム語が「音読できない」こと。
構成員全員が聞こえないなら、文字を声に出す必要は全くない、だからレウム語には音読がそもそも存在しない。
文中ソシュールが出てきて批判されますが、そもそも彼の音素論は「音声」があることが大前提で、文字に対応する音が存在しない言語など初めから想定していない思われます。
ニカラグア手話のとても興味深い先行研究も紹介されていましたが、手話自体は「聞こえる」世界の人々とのコミュニケーション手段でもあります。本当に聴覚障害者間のコミュニケーションに閉じているなら、もっと独特の文法体系であっても良いはずです。
音のない世界の言語がどういったものなのか、現実世界ではそれを説明する理論は存在しないと思われます。
「レウム族」「レウム語」という言葉も、彼らを調査する研究者が勝手に名付けたもので、ここからも我々が"他者"を調査する上で様々な手段が欠けている事が分かります。
集団から「聴覚」という要素を一つ奪う事で、現実世界で積み重ねられてきた理論体系を無力化させる、シミュレーションSFの最高の形だと言わざるをえません。

③レウム族とのファーストコンタクトの問題。
少し捻って、本作には書かれていない、"未開人"との初接触の事を考えてみます。
"未開部族"の事を「イゾラド」といいますが、例えばアマゾンではイゾラドとの初接触はたいてい民族的・言語的に近い、"元イゾラド"の部族出身者が行うようです。
国分拓『ノモレ』の例では、発見されたイゾラドとの信頼関係構築に寄与したのは、供給される食糧ではなく、やはり発話される言葉でした。初めは食糧のために近づきつつも、結局理解できる言葉を話す人物にしかイゾラドは信頼を寄せませんでした。
レウム語はシュメールの楔形文字にルーツがあるという事だから、似た文字を使う部族はいたでしょうが、石板を持ち上げたり回転させたりするのは「音のない社会」の産物であり、レウム族だけのものです。
しかも発話のできない言語……どうやって意思疎通を図り、信頼関係を構築し、翻訳までこぎ着けたのか?
作中、しばしばレウム族の人々が受動的に実験を受けさせられている描写があります。7歳以下の子ども達全員にARデバイスを装着させる事しかり。
レウム族との初接触は、かなり強引で暴力的なものだったかもしれないと想像しました。

④"未開部族"と先端科学技術の親和性。
まず科学技術から最も遠いと思われる人々に、最先端のデバイスを与える、という斬新なアイデア。このアイデアは、レウム語の法則性が、最先端技術で使われているものと論理的に似ているという発見からきている設定ですが、言わずもがな、そのオリジンはレヴィ=ストロースの『野生の思考』でしょう。
かつて"未開社会"は"文明"と対極にあり、人類は「未開から文明へ」と直線的に発展していったという西欧の進歩史観(マルクス主義的唯物史観も含まれる)が優勢だったわけですが、
"未開社会"の象徴の一つでもある「トーテム」が、実は(彼らなりの)経験主義的で科学的な分類によるものであり、そもそも科学技術の出発点はここにある……という主張をレヴィ=ストロースが行い、学界にパラダイム・シフトが起こりました。
ここではさらに発展して、"未開人"が最先端科学に貢献する、西欧進歩史観へのアンチテーゼが提示されています。西欧文明が与える側ではなく、受け取る側なのだと。
この手のアンチテーゼで思い出すのはケン・リュウの『結縄』で、これは古代から伝わる結縄文字(縄の結び目で物事を記録する、実存した文字)を巧みに操る村の長老が、先端薬学の研究開発のために搾取される物語で、ここでも明確に「受け取ったのに敬意を払わない西欧文明」が提示されていて、本作との共通点を感じます。


⑤構造主義的言語学の観点から。
テッド・チャンの『あなたの人生の物語』というファーストコンタクトSFの傑作短編がありますが、本作はこの『あなたの〜』との類似性も感じます。突然地球にやってきたエイリアン「ヘプタポット」の発する言語は周波数の関係から人間には聞き分けできず、文字によるコミュニケーションに頼らざるを得ないのですが、その言語体系は未来・現在・過去が同時的に存在する4次元的なもので、人類の言語と全く異なるのです。
テッド・チャンが天才だったのは、言語構造が、まるで天井から雨水が染み込んでくるように、現実認識の在り方を徐々に変容させていく過程を見事に描いた事です。
エイリアンの文字言語を習得した主人公は、やがて自分の人生の過去・現在・未来を同時的に知覚できるようになり、将来離婚する事、娘を山岳遭難で失う事などをあらかじめ予知できるようになるのです。
これは、レヴィ=ストロースの構造主義の考え方に通底しています。
単語(もっと細分化して音素)は、物を識別するインデックスであり、言語の違いは物を識別する仕方の違いとイコールなのです。
どういうことかというと、日本語では「蝶」と「蛾」という単語が存在し、二つを区別していますが、フランス語ではどちらも「パピヨン」と呼んで区別しません。これはフランス語話者が蝶と蛾を全く同一の存在と認識していて、両者を区別できないということ。
全ての言語はこんな風に、現実の見方に大きな影響を与えているのです。
じゃあ「次元拡張レウム語」や「5次元レウム語」話者はどんな風に現実を認識しているんでしょうか。
本作では、虚数方向に拡張された5次元レウム語は、4つめの次元、つまり時間軸を内包していて、未来と過去を完全に同じものとして表現できる……みたいなことを書いています。本作内ではそれを「完全な言語的対称性」と表現しているのですが、ヘプタポット語と近しいものを感じます。
つまり5次元レウム語話者のディジュラとフラートは未来を予見できるのではないか?
本作の最後、フラートが筆者に5次元レウム語で話しかけてきて、その言葉は全く意味不明なのですが、もしかしたら未来のことを話しているのでは?と私は思いました。


⑥「次元拡張」のワクワク感
ここまで長々書いてきましたが、結局SF小説に出てくる「次元」って最高にクール!「次元拡張」って言葉だけでワクワクさせる!ということが言いたいだけだった気がします。
SFというジャンルにおいて、読者をワクワクさせるタームが他にも幾つかあって、それらの掛け合わせが作品を面白くさせる要素の一つなのかなと思います。
ちょうど私が好きなタームのなかに「次元」と「言語」があったので、この作品がドンピシャにハマった、ということなんでしょう。
「言語」に関しては、個人的に「言語SF」というジャンルを創設してもいいのではないかというくらい、SFとの親和性を感じています。チャイナ・ミエヴィル『言語都市』とか。
皆さんはどんなタームが好きですか?

こんな、5000字を超える長文を最後まで読んでくださった方がいるなら、本当にありがとうございました!

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