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恋愛は関係ない book review

『どこからも彼方にある国』
アーシュラ・K・ル=グィン・作
中村浩美・訳
あかね書房

 人を好きになるのに、恋愛は関係あるだろうか? 私はあまり関係ないと思っている。恋愛感情は人を好きになる感情の一部で、その一部が(占める割合にかかわらず)なくなってしまっても、その人を好きなことに、変わりないと思うからだ。そもそも恋愛だけの関係なんて、あるのだろうか?

 この物語はオーウェンとナタリーの友情が描かれている。この先、彼らの間に恋愛感情が芽生えても、二人は男と女ではなく、人と人として出会ったのだと私は思う。

 オーウェンは、一見恵まれた家庭に育った成績優秀な少年だ。彼の十七歳の誕生日に、公認会計士の父は、新車をプレゼントしてくれた。彼の家が特に裕福なわけではなく、一人息子を喜ばせるための父親の愛情からだ。

 オーウェンは車に興味がない。そんなお金があるなら、科学を勉強するため東部の工科大学に行きたい。でも、自分の考えを口に出し、父を悲しませたくはない。父は彼に『車に目がないごく普通のアメリカ人のティーンエイジャー』を望んでいる。地元の州立大学に進学し、平凡な人生を歩んで欲しいと。

 母は父よりオーウェンを理解していても、彼の味方にはなってくれるわけではない。夫のすることに間違いはない。それが母のスタンスだ。母はよい妻で、よい母親であることを何よりも大切にしているし、それ以外のことを望まないのだ。

 表面的に平穏な日常でも、オーウェンは両親にも友達にも本心を語れない。『ふり』をするのは、疲れる。どこかで相手を騙している罪悪感も伴う。でも、時と場合によっては『ふり』も本心の内だと私は思う。車が欲しくないのは、オーウェンの本心だ。でも、その真実を率直に告げ、父を悲しませたくないのも、また彼の本心だからだ。

 以前、劇作家の平田オリザ氏が何かの記事に、人は様々な場面において何者かを演じならが、人生を前に進めていると書いていた。人は多面的だ。顔は一つではない。『ふり』をするのはもっと自然なことだろう。

 オーウェンは『ふり』が上手くない。プレゼントの新車に乗らず、スクールバスに乗っただけで後ろめたい。父への言い訳を探し、身体がこわばる。

 ナタリーはオーウェンとは対照的だ。彼女は作曲家を目指し音楽づけの日々を過ごしている。将来を見据え、今、優先すべきこともわかっている。それでも不安はつきない。

 二人は出会うべくして出会ったのだと思う。彼らに必要なのは、恋人ではなく友達だ。自らの思いや考えを語り合え、また理解してくれる人がいれば、世界は確実に広がる。

 オーウェンにとって、ナタリーとの友情を維持することは難しくなかったと思う。逆に難しかったのは、そこへ恋愛を持ち込むことだ。彼が恋を無理に意識したことで、一時的に二人の関係は危うくなる。

 友情が恋愛に発展するケースはよくあるだろう。臨床心理学者の故河合隼雄氏は著書の中でも『相当な友情関係と思っていても、恋愛関係がそこに入ってくると、たちまち前者の関係を破壊する力をもってくる』と書いている。だからと言って、彼が男女間の友情を否定しているわけではなく、むしろその逆だ。

 もしどちらか一つ選ぶなら、私は友情を選びたい。人を好きになるなら、一人の人として好きになりたいと思う。そこに恋愛感情があってもなくてもかまわない。

同人誌『季節風』掲載


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