197.2歳の記憶

5月の日差しを浴びると思い出す光景があります。それは幼い時に、母に手を引かれながら、近所のおばさんと3人でツツジの咲く道を歩いていた光景です。いいお天気の日で、母もおばさんも2人とも片手を額に当てて日差しを遮りながら歩いていました。

その時、おばさんが「再来年は幼稚園ね」と言ったことを私はよく覚えています。「再来年」という言葉を聞いたのはその時が初めてでした。「あした、あさって、あさって」と言うのに、「来年の次は来年」というのはおもしろく感じました。そして来年の次の年を表す言葉があるというのは便利だなとも思ったことをよく覚えています。

子どもの頃、私の周りでは幼稚園には大抵4歳の春に入園して2年間通うのが一般的だったので、「再来年は幼稚園」というのは、2歳の春の記憶だということになります。私は夏生まれなので、2歳と8、9ヶ月くらいの記憶だと思います。再来年とツツジの記憶から、1962年(昭和37年)の春のことだったと思われます。

母とおばさんは、クリーム色の電話ボックスを過ぎたところで少し立ち止まって話を終えると「では、ごめんください」と言って別れました。あの頃の電話ボックスは上半分に窓がついていて全体がクリーム色をしていて、丸い穴の取っ手がありました。一番上は赤くなっていて、まるで赤い帽子をかぶっているかのようでした。今、調べてみたら、この古い電話ボックスは「丹頂型電話ボックス」と呼ばれているのだそうです。「さもありなん」と膝を打つ思いです。

この丹頂型電話ボックスは、NTTのサイトによれば1954年(昭和29年)から、四方がガラス張りの組み立て式電話ボックスが普及し始める1969年(昭和44年)まで全国に設置されていったようです。

子どもの頃、よく母は近所の人と立ち話をしていました。私自身はこの十年、二十年を振り返ってみても近所の人と立ち話をしたことなどありません。「ご近所づきあい」のあり方もすっかり変わりました。子どもの頃は、ホウキやジョウロを片手に立ち話をしている人をあちらこちらで見かけました。

私は早くお店やさんに行きたいのに、母が額に手をかざしながら「ええ、そうですわね」などと立ち話しているのが永遠にも感じられて、一体何のために額に手をかざすのだろうと思い、私も手をかざしたり、下におろしてみたりして眩しさの違いを探ったり、また母とおばさんの影の長さを比べてみたり、子どもながらに色々と暇つぶしをしていました。

それでも母の立ち話は、まったくいつ終わるとも知れず、といって母のエプロンを引っ張って急かしたりするのも相手のおばさんに悪いように思い、退屈で退屈で体をくねくねさせて待っていました。

目の前の垣根のマサキの新芽や、ヤツデの葉っぱの上を転がる水滴、紫陽花の葉をゆっくりとすすむカタツムリ、地面に列を作るアリなどは今でも写真や映像のように浮かんできます。

◇ ◇ ◇

三島由紀夫の『仮面の告白』は、次のように書き出します。

 永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見た言い張っていた。それを言い出すたびに大人たちは笑い、しまいには自分がからかわれているのかと思って、このあおざめた子供らしくない子供の顔を、かるい憎しみの色さした目つきでながめた。(中略)
 どう説き聞かされても、また、どう笑い去られても、私には自分の生まれた光景を見たという体験が信じられるばかりだった。おそらくはその場に居合わせた人が私に話して聞かせた記憶からか、私の勝手な空想からか、どちらかだった。が、私には一箇所だけありありと自分の目で見たとしか思われないところがあった。産湯うぶゆを使わされたたらいのふちのところである。おろしたてのさわやかな木肌きはだの盥で、内がわから見ていると、ふちのところにほんのりと光がさしていた。そこのところだけ木肌がまばゆく、黄金きんでできているようにみえた。ゆらゆらとそこまで水の舌先がめるかとみえて届かなかった。しかしそのふちの下のところの水は、反射のためか、それともそこへも光がさし入っていたのか、なごやかに照り映えて、小さな光る波同士がたえず鉢合はちあわせをしているようにみえた。
 ——この記憶にとって、いちばん有力だと思われた反駁はんばくは、私の生まれたのが昼間ではないということだった。午後九時に私は生まれたのであった。してくる日光のあろう筈がなかった。では電燈の光りだったのか、そうからかわれても、私はいかに夜中だろうと、その盥の一箇所にだけは日光が射していなかったでもあるまいと考える背理のうちへ、さしたる難儀もなく歩み入ることができた。そして盥のゆらめく光りのふちは、何度となく、たしかに私の見た私自身の産湯の時のものとして、記憶のなかに揺曳ようえいした。

三島由紀夫著『仮面の告白』新潮文庫版より

私が何かの折に2歳の頃の記憶を話したら、そんな小さい時の記憶があるはずがないと言われたことがありますが、高校生の時に『仮面の告白』を読んで、勇気づけられました。

◇ ◇ ◇

おそらく私の一番最初の記憶は、このツツジの咲く道を歩いていた日のことだったと思います。そして、断片的に2歳の時の記憶が幾つか残っています。いずれもちょうど3歳違いの弟がまだ母のお腹にいた時のことでした。

父に大阪の祖父母の家に特急で連れて行ってもらったことも、鮮明な記憶のひとつです。

私の両親は大阪で出会って結婚し、私が生まれてすぐに転勤で東京の西の郊外へ引っ越してきました。父は仕事柄、大阪出張がたびたびありましたが、そういう時、父は母の実家に寝泊まりしていました。今思うと、妻の実家を出張のたびにホテル代わりにしていたというのは何だか不思議な感じですが、どういうわけか私の家ではそういうことになっていました。

祖父母は娘婿の父を気に入って歓待していたようです。九州出身の父も学生時代から住み慣れた大阪とはいえ、母の実家の居心地が良かったのか、この習慣は、私が大学生になって祖父母が私たちの家に来て一緒に暮らすことになるまで続きました。

特急に乗って私が祖父母の家に連れていってもらった時、母はお腹が大きいのでお留守番でした。おそらく父は出張ついでに祖父母に私の顔を見せたかったのでしょう。1962年(昭和37年)にはまだ東海道新幹線は開通していませんでした。

私は夜汽車に乗って窓外の東海道線の沿線を眺めていました。真っ暗な中に、時々、裸電球の電信柱の灯りが灯っているのが見えました。暗闇の中に、時折家々の灯りがかたまって見えることもありました。灯りの下には人々が暮らしているのかと思うと、子ども心にも感慨深いものがありました。

私の記憶では、名古屋駅で乗り換えのために途中下車しました。待合室には茶色い木のベンチが置いてあって、そこには売店がありました。父が何かの買い物をしている時に、ガラスのケースの中にビーズを繋いで自分で作るおもちゃの首飾りを見つけてそれを眺めていたら、よほど欲しそうに見えたのか、父がそれを買ってくれました。

すぐに木のベンチに腰掛けて蓋を開けて作り始めようとしたら、父にもうすぐ電車が来るから乗り換えてからにしなさいと言われて、列車が来るのが待ち遠しくてたまらなかったことを覚えています。記憶はここで一旦途切れますが、大阪の祖父母の家の玄関を入る時に完成したビーズの首飾りを首から下げていたことは覚えています。

◇ ◇ ◇

弟がお腹にいた時の記憶でもうひとつ鮮明に覚えているのは、買ってもらったおもちゃのカメラで母を撮影した時のことです。

そのおもちゃのカメラをどういういきさつで誰に買ってもらったのかは憶えていませんが、とにかくそのカメラは一眼レフのような形状で、レンズの部分がはずれるようになっていて、その中にお菓子が入っていました。お菓子を食べてしまうと、レンズの内側は空洞になりました。

私はしばらく、シャッターをカシャカシャ押しながらあちこちの写真を撮る真似をしていましたが、我ながらグッドアイデアを思いつき、早速新聞広告小さく切って裏の白い部分にクレヨンで絵を描きました。それはその日母が来ていた青い水玉のワンピースを着た母の絵で、洋服ダンスの前に立っているという絵でした。大きなお腹や、パーマをかけた髪型や、メガネもしっかり描きました。そしてその小さな紙を折ってクルクルと丸めて、レンズの内側に入れました。

それから、台所にいた母に写真を撮ってあげるから、こっちの部屋の洋服ダンスの前に来てとお願いしました。しかし母は忙しいのか、ここで撮ってくれればいいわよと言って、なかなか来てくれません。そんなことを言わないでこっちに来てと何度も言うと、じゃあしょうがないわねとカーテンの前までは来てくれました。けれども、あと少しの洋服ダンスの前までは来てくれません。

あの時、カーテンを背景にした絵も描いておくべきだったと後悔しましたが、背景には既に洋服ダンスを描いてしまっていたので、シャッターを切るわけにはいきませんでした。母は、もういいでしょと言って台所に戻ってしまい、私は悲しくなってベソをかきながら、お願いだからもう一度洋服ダンスの前まで来て欲しいと頼みに行きました。

母にしてみたら、忙しい夕方におもちゃのカメラを片手に単に子どもがわがままを言っているとしか思えなかったでしょうが、私はどうしても今日じゃないと、明日は違う洋服になってしまうからと焦っていました。結局、母が根負けして洋服ダンスの前に来てくれた時には、楽しい撮影会だったはずなのに、私は必死の形相になっていて楽しいどころではありませんでした。

やっとシャッターを押して、涙をこらえながらレンズを開けて中から写したばかりの写真を披露したら、母は、まぁだから洋服ダンスの前でなくっちゃダメだったのね、ごめんなさいねと笑い、私は緊張が解けて、声を上げて泣いてしまいました。

あの日の母のワンピースはノースリーブで、お腹も相当大きくて臨月に近かったと思います。同じく夏生まれの弟もあれから間もなく生まれ、私は3歳になりました。2歳の夏の記憶は平塚の七夕祭りや、出産の手伝いに大阪から祖母が来てくれて嬉しかったことなど他にもありますが、きっと両親はビーズの首飾りもおもちゃのカメラも記憶してはいないでしょう。

子どもとは、大人が思わぬ場面を鮮明に記憶しているのではないかと思います。



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