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華のかけはし 東福門院徳川和子 梓澤要著

東福門院徳川和子 徳川二代将軍秀忠とお江与の末娘、この夫婦の間には二男五女が生まれた。長女千姫は豊臣秀頼の妻初姫は京極高次の妻である次姉へ養女、珠姫は前田利常の妻勝姫は松平忠直の妻、家光、忠長、そして和姫後の和子は後水尾天皇のもとに入内と決められた。徳川の血を引く天皇の誕生という悲願のために、この時代良家の女は哀しい、自分の意志でなく実家の為に嫁ぐ、和子は十四の時に二度と、江戸の土は踏めぬと京へ旅経った。後水尾天皇は十一歳年上その上およつという女官との間に、二人の子までなしていた。先帝後陽成と家康との度重なる衝突があった。ここ数代の天皇は朝廷の権威の復活を悲願としてきた。一触即発の朝幕関係、そこへ関東から将軍の娘が入内してきた。さっさと三献をすませて追い払ってしまおう、和子のこの幼さなら公儀も強引に夫婦の閨事を急き立てはしまい。禁裏と里御所別々に暮らすのだから、こちらから呼ばないかぎり、この女はここへは来られない、顔を合わせずに済む。せいぜい飼い殺しにしてやる、二人の子を残して後水尾が知らないうちに、宮中から姿を消したおよつ、公儀の差しがねではなく公儀を憚った廷臣たちが示し合せ、因果を含めて退去させたのだ。その怒りをそのまま、和子に向ける理不尽を自覚しながら決まり文句を素っ気なく後水尾は口にした。幾久しゅう、こうして始まった。徳川を背負って江戸からきた。家康の孫娘将軍の娘としての矜持がある。和子は孤独であったと思う、出自は将軍の姫君、それにもかかわらず和子はたった一人で、敵地に乗り込んでいった。公家たちとの軋轢はとんでもなかったと想像できる。まさに針の筵。それは祖父の家康が天皇と公家衆を、政治に口出しできぬよう学問諸芸の檻にとじこめた。公儀が力ずくで天皇を押さえつけ、天下の主になるなら、こちらは学問諸芸で天下に君臨してやる。お上はお怒りなのだ、和子は気づいたまだ夜のお相手はできない、帝のまわりに夜伽をする女達がいるのはわかる、無知で教養のないまま大人になったら、相手にされず、顧みられぬままこの里御所に閉じ込められ、虚しく年老いていく、時はある和子はさっそく歌と古典の師を招き、茶の湯と立花、能、書画片っ端から習い始めた。入内してから一年半、後水尾天皇はまだ数える程しか和子に会っていない、気をもんだ母の中和門院近衛前子が自分の御所での催しに、揃って同席するようはからっている。母の配慮はわかるが決まり文句の挨拶を交わすだけで、ろくに顔も見てなかった。それ以外は禁裏に招くことも、里御所に出向くこともしていない、わざと自分を忙しくしていた。後水尾天皇は母から、女御里御所で行われる和子の脇附の祝いを見物しようと誘われた。申し入れてあるとのこと、用意周到に苦笑しつつ、自分も乗り気になっているのに気づいて、内心舌打ちした。現れた和子の変わり様に目を見張った、和子と話してみたい気がした。以前の和子とどこか違って見える、内面的な何かが変わったのか。それから和子は後水尾天皇との間に四人の皇女、二人の皇子をもうけるが。待望の皇子は夭折してしまう。後水尾天皇の突然の退位、紫衣事件だ。和子所生の長女興子内親王を即位させる夫帝、徳川の血筋の天皇なら文句はあるまいと言い放つ。公武の不和と緊張の狭間での苦労を、持ち前の芯の強さで乗り越え、局たちから生まれた皇子を養子として育て、四代の天皇の国母として存在する、後水尾天皇は次第に妻に感化され、夫婦関係は徐々に変化してゆきよき相棒に、和子は両家の対立を超えた存在となっていく。入内してから五十八年間にいたる努力はまさに修羅。七十二歳で死去、後水尾法皇は和子の死去から二年後八十五歳で崩御。 歴史上唯一、皇后となった徳川の姫、御所で花を育て、茶の湯は利休の孫宗旦に習い爪紅という茶器を好み、香道にも功績を残し、和子が好んだ小袖の意匠が、流行の先端となり京の染色文化を発展させ、女院好みと言われた。また鳥獣戯画を見て面白いと補修をさせたとも聞く。退位してから後水尾は立花、作庭などに打ち込み、桂離宮や修学院などに手を入れ和子と二人で楽しんだという。この稀有な生涯の描いた物語。捨ててこそ空也の著者が描いてくれました。


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