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パーソナルスペース日記

去年のクリスマスに台湾に行った時、驚いたことがあった。

お友達の住んでいる桃園から台北までの電車の中で、混んでいても混んでいなくても優先席に若者が座らないということ。まるで優先席には座ってはいけない、という決まりがあるかのようだった。

そして子供連れのおじいちゃん、おばあちゃんが来たら、優先席にふわりと座る。特権とかそういうことではなく「そういう風にできている」といった空気感があったような気がした。

その空間にいること自体、なんだか幸せな気がして、台湾の電車が混んでいるときはなるべく立っているようにした。(台北の地下鉄はまたちょっと違う空気だったような。)

台湾人のお友達に聞いたら、え?これって普通じゃないの?仏教だからかな?といった答えが返ってきた。

NYで私がよく使う地下鉄のラインは若者が多い。それでも若い男女が、立っているのがつらそうな人を見つけるとスマートに席を譲るのを度々見た。友人の男性はシャイで席が譲れないため、混雑を感じたら最初から座らないと言っていた。混んでいる電車では大抵女性が座っている。そして女性も、席を譲った方がいい場合には躊躇なくすぐに行動する(ように見える)。

どこがいいとか悪いとかではなく、東京で地下鉄に乗った時には、男性が座って女性が立っている状況を多々目にした。妊婦さんも、ベビーカーの子供連れも立っているのを見た。

私も小さい時に子供は立っていなさい、と言われた記憶がある。

男女が、老人が、育児が、労働環境が等々、議論のトピックになりうることがあるのはわかっているが、心がかすれている感じがした。

知らない大勢の人が一緒に少しの時間を過ごすということ。思いやりとは。

こういった現象についての理由が自分の中でぼんやりとひっかかっていた。倫理的、文化的、宗教的なことではなく、公共スペースでの個人のあり方に興味があった。


今日読んでいた本に「歩きスマホ」に関する文章があった。

歩きスマホがいやなのは、人の善意に頼っているという点もあります。…危ないと思うなら、気づいた人の方がよければいいという暗黙の考えがある気がします。これは他者の存在という考えを根本的に欠いた態度です。
でも、スマホがからだの一部のようになってくると、小さな画面だけがその人にとっての世界と直結してしまうので、他者とかそんな面倒なことは考えなくても、たんに習慣として外界を排除してしまう傾向が強くなります。

ああ、納得。

自分が走っている時や作業している時にラジオや音楽を聞いていると、その音と自分だけがいる世界にいる気分になる。集中するために携帯がない時代からやっているから忘れていたけれど、無意識に自分と世界を切り離していたのだ。

切り離してはいるけれど、自分の好きな世界とは繋がっている感覚。

きっとその延長で、自分の身近な人からの連絡やSNSでの情報がそこに来ることで携帯の画面=自分だけの世界、になってしまうのだろう。

一人でいるようで一人じゃない、という孤独を簡単に打破させてくれるような気分にはなる。けれど、その一方でスマホ以外の景色、音、周りの人々を見ていないのではないか。


見る、見られる、自分と、他人。他人の世界。

まだ明確に理解したわけではないが、ちょっとだけヒントが得られたような気がする。忘れないようにしよう。

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