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「なにもしない」をするよ。


兎角、私の頭の中は自動的に先の予定を考え出す。
あらゆるリスクを検討し、
有用性と、生産性を求めだす。


ただそれは私の「したいこと」ではなくて、
社会に「求められたこと」社会に「適応するため」に身に着けたものにすぎない
ということを忘れないでいたい。

多分私自身の特性なんですが、
まるで自分自身が「求められたことがしたいこと」のように思い込み、
その行動をできてしまいます。

個人的には、侵食って呼んでます。


他人という存在が、しゃべるでも何かを押し付けるでもなくただ近くにいる時点で、
自分の願望を見失う。
息苦しくて仕方なくなる。
けど、自分の願望がわからないから、その理由がわからない。


それに気づいたときにはだいぶ遅く、ものすごく疲弊しやすい性質だと思っています。
別にしたくもなんともないということを、わかる必要がある。
ひとりの時間を設ける必要がある。
常に脳裏に留めておくと、たぶん生きやすい。

余裕がなくなると、それを考えることすら難しくなってしまうから、
習慣的行動に組み込んでおく、って大事だと思います。


有用性と生産性だけを追い求めると、
「役に立たない自分は無能で、もっと努力しないといけない」
と思ってしまいますよね。


私もまだ、「役に立たない」が頭にちらついてしまう。

でも、利他と同じだけ利己を大事にする
「なにもしない」時間を設けたっていいと思う。

役に立つ・立たないだけが、人間を見る目線になってしまったら、終わりだ。
だって私は、愛する人たちをその指標では判断していない。
自分のことだって、その指標で判断しなくていい。

仕事にたいし、真面目くさってずっと集中する必要もない。
ひとが残業しているからって、自分も残らなくて大丈夫。
死なない程度に、手を抜いて、サボったっていいと思う!

利他をしたい心をしまって、自分を守ろうと思う。
その罪悪感すら捨てられたらいいのに!修業が足りないですね。


だから、今日も私は
執務室から離れ、個別ブースや共用スペースで
ちょっとサボっている。

人にも同じように、優しくしたい。

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