カシスとオレンジ
「恋人ってね、3年経つと、友達に戻るんだって。今日と明日で、私たちの関係が何か変わると思う…?」
ドキッとした。もう3年経つというのに、僕は記念日を忘れていた。いや、3年も経つから忘れていたのかもしれない。
静かすぎるこの街の暗がりの中、彼女はコンビニ袋を覗いて、缶がぶつかり合うのを見つめている。
狭い部屋で350mlのお酒を開ける。
「あと2分で、今日が終わって明日になる。そこで私たちって、友達に戻るの?」
僕は困惑した。彼女の質問に対してではなく、彼女の様子に。
その辺の女の子のように、かわいいものや甘いものに興味が無い。
いつも黒い服を着て、口から毒を吐く。
そんな悪魔が、今だけはやけに哀しそうに見える。
「僕ら、今も友達じゃん。」
これが僕の答えだった。
「恋人であり、友達だよ。これからもずっと。」
「よかった……」
この悪魔は、欲しかった答えをもらうと、こんなふうに満足気に微笑む。
そして特別に嬉しいと……頬を濡らしたりもする。
「ありがとう…」
震えた声で呟いて、机に頬杖をつく。彼女の手首につたう涙を眺めているうちに、2分経っている気がして、デジタルの目覚まし時計に視線を移す。
“23:59:02”
3秒… 4秒… と、規則正しく進んでいる。
「そろそろだよ。」
悪魔も時計を見る。
58秒… 59秒…
“0:00:00”
1秒… 2秒…
「・・・友達に戻っちゃったね。」
悪魔がいたずらに笑って、僕の手をわざと弱く握る。僕はあえて強めに握り返す。
「誕生日は覚えてくれているのに、なんで記念日は忘れちゃうの?」
悪魔がまたニタリと僕を見つめる。
思わず手の力が弱まる。
「誕生日の方が大事だから。」
「なんでー?」
「君が生まれた日だから。」
「なんで私の生まれた日が大事なのー?」
「・・・・・・。」
困って口を噤む僕を見て、楽しそうに問い詰める彼女は、やっぱりただの悪魔だ。
「2年記念日の時も、同じこと言ってた。誕生日は覚えてるからうんぬん…。」
「そんなこと言ってた?記憶にないよ…」
「それも去年言ってた。」
「じゃあ1年記念はどうだったの?」
「そんなの記憶にないよー。」
僕の真似をしてケラケラと笑っている。この悪魔には何年経っても敵わないだろう。
「うそだよ。私、1年記念日はちゃんと覚えてるよ。」
空になった缶を見つめながら、悪魔が優しく語り始める。
「受験が終わったから、初めてちゃんとしたデートした。中学の卒業遠足で行った場所に行った。帰りは私の家まで送ってくれた…」
いい感じに酔いがまわっているのか、悪魔は顔を赤らめている。
「でもね、私たちがまだ中学生のとき…6年前もそうだったんだよ。その頃はまだ片思いだったけど…。そのときからずっと、そうなる気がしてた。絶対会えるって思ってた。だからあの日、また家まで送ってくれたのが嬉しくて……。」
ポロポロと流れる悪魔の涙。僕はもう何回もこの涙に触れている。なのに、この涙を見るだけで、心臓がもぎ取られそうになる。眉間が焼かれるように熱くなる。
手を離してそっと近寄ると、めずらしく悪魔の方から甘えてくる。まるで幼い子どものように。棘のついた尻尾も、なよなよと垂れている。
3年経っても、どこにも安心はなくて。
むしろどんどん脆く儚く、
危なっかしくなっていく。
いつどんな形で失うか、
不安に怯えて、
怖くて仕方なくて、
「守りたい」 なんて、簡単には言えなくなる。
「なんで泣いてんの。」
考え事をしているうちに、悪魔は僕の腕の中ですっかり元気になっていた。
「明日はどうするの?」
僕が話を逸らす。
「今日だよ。」
やっぱり手強い。
「“今日”はどうするの?」
「決めてよ。」
「じゃあ花見する?向こうじゃあまり見れなかったでしょ?」
「花見する!あっちじゃまだ雪降ってるよ。帰って来れてよかった〜。」
深夜テンションとお酒の力が相まってはしゃぎ回っている。そんな彼女を見ていると、僕も楽しくなってくる。
「そうだ、ジャンケンしよ。負けた方が“今日”のお酒買ってくる。」
「そういうの、どうせ言い出した方が負けるよ。」
そんな悪魔らしいことを彼女は言う。
・・・そして僕は見事に負けた。
「カシスとオレンジでいいね?」
「うん!ありがとう」
「じゃあ僕もそれにする。」
ホワイトソーダじゃなくていいの?と不思議そうな顔をしている彼女に、僕は、たまにはねと笑いかける。お揃いだねと、彼女も笑う。
今日だけ僕も、悪魔の気分を味わってみる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?