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昨日までは当たり前のように朝の挨拶を交わし、その日あったことを交換し、くだらない冗談を言い合っていたとある友人からの連絡が途絶えたのは寒い冬のはじまりの日。

そんなこと誰にだって経験があるだろう。みんなそれなりに仕事をしている大人なのであり、毎日まいにち時間がたっぷり余っている人などそうそういない。これは異常事態でもなんでもなく、単なる予想できた未来の一片にすぎない。それなのに突然その日がやってくると、私は素直にショックを受けた。当たり前だと思っていたことがなくなることは、その規模の大小に関わらず、どんなにささやかなことでも、悲しみをもたらすものなのだと知る。


当たり前がなくなった翌日、いつものように朝のコーヒーを淹れデスクへと向かう。パソコンの画面を見るともなく眺めていると、ぽんっとメールが一通届く。今週予定していた仕事がキャンセルになったという知らせだった。これも誰にだって経験があるかもしれないが、よくないことというのは示し合わせたかのように一斉にやってくる。うまくタイミングをずらして少しずつ…というようにはいかないものなのか。そもそも受注していた仕事がひと段落していたタイミングだったのに、さらに一つ仕事が減ってしまうとなんだか手持ち無沙汰である。これをいい機会と思って旅にでも出たらいいのだろうが、なんだか昨日あったことが心に暗い影を落とし、なかなか外へと気持ちが向かわない。

気を取り直して、友人から依頼されていたのにずっと放置していたパッケージデザインの仕事に取り掛かることにする。読まなければいけないけれど、タイミングを失いずっと開かないままになっていた手紙の封をいよいよ切るときのような、少し重たく、ドキドキとした気分になる。
開けた手紙には大しことなど書いていない。事件は起こらない。日常の単なる知らせでしかない。そのことで少し安心はするが、気持ちはおいてけぼりになる。そんな感じで、仕事のほうもなかなか身が入らない。

諦めて近くの立ち飲みのお店に出かける。顔見知りが数人いて、他愛のない話をしてお酒を飲み交わし、気持ちを落ち着かせる。心地よく酔いが回ってきて、数日のうちにあった嫌なことを頭の片隅に追いやることができた気がした。夜もふけていき楽しくなってそろそろ帰ろうかとみんなに別れを告げ、ふわふわとした足取りで家路に着く。鍵を開け、部屋に入る。シャワーを浴びるのも億劫になるがどうにか洗面所まで行き服を脱ぐ。そのとき、私の耳につけていたはずのイヤリングがなくなっていることに気づく。自分の誕生日に記念に買ったものだった。


それからの一週間は予想した通りの一週間だった。もがけばもがくほどどんどんと奥底に沈み込んでいく沼に身体全体を預けてしまったような、そしてそこに時間という手持ちのボールをぽいぽいと投げ捨てていくような、そんな日々だった。自分自身だけでなく、時間までもがどんどんと沼に沈んでいく。それを周りから見られている。自分はなにもできない。

期日の差し迫った仕事はなく、ゆっくりしながら溜まった事務作業やデザインワークをやったらいいと気楽に考えていたものの、毎日私の身体は朝からベッドにへばりついたままなかなか剥がせない。どうにかベッドから這い出るが、パソコンに向かう気持ちにはなれず、心を決めてランニングに出かける。帰ってきてシャワーを浴び、それから。
ぼうっとしているけれど何も考えられない、頭が働かない。仕方ないのでもう仕事は諦めて読みかけの本でも読む。ソファに腰を下ろしてページを開くが、文字は一本の線でつながってしまって、何かのおまじないのように目の前をただ通り過ぎていくだけだ。

友人からの連絡がこなくなる。ただそれだけのきっかけだったのに、招かれざる客がどんどんと玄関のドアを叩くみたいに、次から次へと自分にとっては気持ちの良くないことがこちらに向かってやってくる。避けられないものなのか。このどうにもならない、言葉にならない気持ちを誰かにぶつけてしまいたくなるのだけれど、会いたくなる人が思いつかない。会ってくれた友人がいたとして、なんと言ってこの気持ちを伝えたらいいのかわからない。どうしたらこの毎日から抜け出せるのだろう?答えのない問いは私の頭上からふわりふわりと浮かび上がってそのまま屋根を通り抜け、遠い空の上まで飛んでいってしまう。

仕方なく目で追っているだけの本を閉じ顔をあげると今日という日はもう終わりへと向かっていて、太陽は地平線の下へと潜り込む寸前だ。西日が差し込むリビング。冬の間はずっと暗いこの部屋が一番明るくなる時間。差し込む光の先を目で追うと、壁に貼り付けたポストカードが目に入った。同年代の画家の友人が展覧会を開いたときに作ったもので、彼女の絵がプリントしてある。

その小さなポストカードには女性の姿が描かれていて、マグカップを片手にデスクに向かい、何やら考え事をしているらしい。傍らには聡明な目をした犬の姿も見える。彼女の飼い犬なのだろう、左手をそっとその犬の背中に添えている。彼女のデスクの上にはペンと紙が散らばっていて、びっしりと文字が書かれている。誰かへ宛てた手紙なのだろうか?それとも彼女は作家で、文章をパソコンに打ち込むのではなく手で書くタイプの人なのかもしれない。それともただ思ったことを書き付けているだけなのだろうか?
彼女の姿をぼうっと見つめながら、そうか私もなにか文字にしてみればいいのかもしれないと思いつく。霧のかかった山の中、一寸先の景色も見えないような状態の頭の中を、文字を使って書き起こしてみたらいい。別に誰かに聞いてもらわなくたっていいのだ。なにも口から発する必要などない。手を使って、その辺に散らばっているコピー用紙の裏側に残したっていいではないか。

もうこれ以上迷わないように、霧深いその山の風景を、頭の中に広がるその情景を、今の自分が見ているものを、そのまま紙の上に書いた。自分は今どんなところにいて、どんなものが見えていて、どんな音がして、どんな香りがしているか。文字が紙の上を走れば走るほど、頭の中を覆っていた霧もだんだんと晴れてきて、空が見え、雲の間から太陽が時折姿を現す。
あ、空がみえてきた。そう思ってふと顔をあげると、部屋の中はもう夜の闇に包まれ真っ暗になっていた。


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