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【時雨こぼれ話】 プロローグ / 「そのずっと手前」①

どうも桃果子です。
もともとわたしを知っていて「評伝とか、意外といいじゃない!」と思ってくださったみなさま(なんかそういう声ちらほら頂いた)、
「かぐらむら」を通してわたしを知ってくださった皆様、まずはその手前シリーズから始めさせてください。
わたしと時雨さんのこと、わたしはなぜ時雨美人伝を始めることとなったのか、などなど。「かぐらむら」では当初から編集長に、
「みんなは長谷川時雨に興味があるんであって、それを書くモカコさんに興味があるわけではない、むしろない!」とバッサリ斬られ、笑、
基本的には時雨さんに集中している評伝 ”時雨美人伝” でありますが、
この”時雨こぼれ話” では、時系列に沿って第1回〜第5回(現在)に渡るまでの、刷られた4ページでは語りきれなかったことを、
こちらのマガジンに”こぼして”いこうと思っています! 
時系列でいこうと思うので、
まずプロローグ/ 「そのずっと手前」① から始めたいと思います。

こちらはエッセイとして昔の月モカで時雨さんについて語ったものの抜粋から始めますので、時雨に興味あり>モカコに興味なしのお方は、
プロローグが終わるまで今しばらくお待ちくださいませ!なるべく写真なんかもたくさん載せて楽しめるものにはしたいと考えていますし、終わって ”こぼれ話” 本編に入る時も必ずお知らせします。

(これは2011年頃、時雨さんを知ったばかり。安い羽織を来て”船パリ”という現在も未完の時代小説を書いている。女人芸術の創刊号写ってますね)

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《月曜モカ子の”私的モチーフ”第75回 「没する、を慈しむ」》 
文と写真 / 中島桃果子

東京に来て18年になるけれど、鶴見という駅には初めて降り立った。
予想していたよりはるかに大きい、小さな街とも言えるそのロータリーなんぞを横切って、總持寺を目指しててくてく歩いていく。

(じぶんなりの正装として。季節の着物持ってないから浴衣とする)

去年の8月8日は、親友と山梨にある「不二阿祖山太神宮」に行った。日本最古といわれる富士王朝の再建として建設中の神社である。
2015年の頭にアヤビヤにひと月滞在し、その中でも古いシャルジャという街の大きな博物館で人類の叡智にふれ、シュメール文明という、世界最古の文明を知ってから、人間の始まりはなんだろうというような、
家系図を最後まで遡った時に何が見えてくるだろうというような、
「はじまりの日」への飽くなき探究心が湧き上がってきて、いろいろ調べているうちに富士の麓にある日本の黎明をふちどる祠にたどり着いた。
今年の8月8日は親友が原宿のジャズ喫茶を休めないということで、はて、何をしようかな、何をするべきだろうと考えて、
ふと、まだ一度も参ったことのないあのお方のお墓に参ろう、と前日くらいに思い立った。

(↑鶴見の総持寺)
                                  大きなお寺を訪れたのは初めてだった。
神社とはまた異なる、圧倒的な「静」の気配、建物の彫刻やデザイン、どれをとっても絢爛とは異なる、けれども圧倒的な「気配」を宿す、お寺の気配。2010年にスペインから来たJosepという友人(当時初めまして)に京都を案内する際「寺院と神宮はどう違うのか」と聞かれて答えられず、「答えられないの!?」と驚かれ嘆かれたことを思い出す。
なんでこんなシンプルなことを答えられなかったのだろう。
概念とか難しい話をしていくと難しいけれど、ひと言でわたしが言うなら、神宮とは昇り、日の出の場所で、寺院とは没する、日没の場所なのだ。

神宮は昇るものを讃え、寺院は没するものを厳かに受け止める。
ちょうど1年前は神宮を訪れ、今日、寺を訪れていることには、何か二つで一つのような意味があるように思えた。
                             
「生き死ぬるもの双方に光を与えよ」
                                  これはアラビヤのリワ砂漠で一泊した次の朝、朝食を食べていた時に何となく降りてきた言葉だ。降りてきた、というと胡散臭いし、ふと頭に浮かんだ言葉ということなのだが、こんな言葉はわたしの魂と肉体の辞書にはないので、やはり降りてきた、とする。その言葉がメメント・モリ、という概念を表しているのだと知り、そういうことだと解釈したのは少し後のことだ。
                              
没するもの、没したものから聞きたいことがある。
あなたの歩いてきた道に、教わりたいことがある。
その寺の総案内で長谷川時雨の墓の場所を聞いて、壮大な敷地の中を目指しながら、わたしは妙にアラビヤで聞いたあの言葉がしっくりくるのを感じていた。
「双方に光をあてよ」とは、わたしたちが能動的に光をあて続けなければいけないよ、と、一つの使命のように解釈していたけど、そうではなかったのだ。特に沈みゆくものに対して、沈んだものに対して光、すなわち目を向けてごらん、そうすればそこから逆に光を授かることができる。教わることができる、ということだったのだ。
                              
それは出かけに聞いた陛下のお話(退位の中継)と、わたしの中では繋がるものがあったので、今の時代を生きるわたしたち、未来という「生きる光」を見据えながらも、死ぬるもの、没したものをもっときちんと見つめなおして、そこから学ばなければならないのだ、というような感じが、フワワ〜と肉体に入ってきた。

                   (美しく磨き上げられた廊下)
                              
こう文字に書くと説教くさく政治の話のようになってしまうのだが、この感覚が広大な寺院の穏やかな夕暮れ、ずっとそこに立っている古木や、芝の緑、そして蝉の鳴き声なんかに混じって、「わたしはなぜ今日、彼女に会いに来たのか」という目的と重なった時に、感覚的、細胞的に、すっと理解できた気がした。

「墓を参ってやる」のではない。「参らせていただく」から。どうして? 教わりたいことがあるからだ。聞きたい言葉があるからだ。
                              
陛下の言葉を聞いてから家を出たので、時刻は17じを過ぎていた。柔らかな橙色(だいだいいろ)の光が、わたしの背中を押してくれていた。
わたしは急いだ。なぜか、とてもはやる気持ちがあって。
早く時雨さんに会いたかった。答えが知りたかった。
どうして、わたしはこんなにもあなたの背中を自分が追いかけ続けているのか。
生きた時代をともにしていないあなたを。

長谷川時雨の墓に行くということは誰にも話さなかった。どうしても叶えたい願い事は、叶うまで自分の心に秘密にしておかないと、逃げていきそうな気がするから。

                             
「ホの1」総案内で聞いたその区画でだけでもお墓はたくさんあって、見つけられるか不安だった。でも絶対見つけねば、と思った。
人をもてなしたり尽くしたりすることが苦手なわたしは、花の一本も持ってこなかった。こんなこと、あのイケてる時雨さんならありえないな、と思いながら、
                             
「最初から慣れないことを根詰めてしてしまうと、後が続きませんよ」という声も聞こえてくるような、そんな感じもあって、
(また、夏の間にもう一度来ます)
と独り言を言って、「ホ」の手前で水を汲んだ水桶を手に、わたしは正装(絽も紗も持ってないから浴衣しかなかった)で、時雨を探して足を運ぶ。
                              
地図に「水場」「水場」とやたらあるけどこれなんだ? と思っていたのだが、桶と柄杓と水道を見つけて、そらそうかと思った。わざわざ遠くで水を汲んできたが「ホの1」にも水場はあった。そらそうだ。そんな不親切なお墓はないよね。
地元ではおじいちゃんやおばあちゃんが眠っている場所は、そんな大きくはない。だから敷地内の真ん中に、水場が一つだけある。
察しが悪いタイプだから、この大きな寺院に水場が数箇所しかないと思い込んでいた。

                              
長谷川時雨が眠っている墓は、当たり前だけど、字が逆向きから刻まれているから「川谷長」となっていた。
そのせいで何度も素通りしてしまった。
他のお墓に入って、手も合わせずに間違いましたと出て行くのは無礼であるから、とにかく間違ってはいらないようにしなくてはならない。
                              
何度かそのあたりをぐるぐるした後、わたしは思い切って「川谷長」の敷地に入ってみた。墓の隣にある石碑に名前が刻まれている。すべて苗字は長谷川だったが、長谷川やす(時雨の本名)の名前はなかった。
けれど次の瞬間、その左に、歌の刻まれた石を見つけた。そこに待ちわびた名前があった。「長谷川時雨の詠んだ歌」石にはそう書かれていた。
                              
それを見つけて安堵した瞬間、わたしの目にこの墓が「長谷川家の墓」なのだということがはっきりと飛び込んできて、同時に大きく傷ついた。

ここを訪れる人がいないことは、墓に向かう石畳を封じるように生えている雑草がそれを語っていた。淀んだままで溜まった水、悪い意味で荒れ果てているのではなく、石碑に刻まれた名前の最後の年などを見るに、存命の親族がもうおられないのではないか、というような感じだった。

(2018年現在補足するなら、甥っ子の長谷川仁さんの名前は2016年、すでに刻まれており、著作の参考にさせて頂いた森下麻理さんは2017年に他界、などと考えていくと時雨さんを追いかけた世代の方々もずいぶんとご高齢となられている)

                             
「男やもめに蛆(うじ)がわく、というけど本当ね」

鶴見から神楽坂にやってくると、そう言って何かと若い恋人の世話を焼き、たった一人で引越しの段取りをこしらえ、
また若き文壇青年たちが、その心地よさをいいことに集まってくれば、お酒をつけ、台所に立ち手料理を振る舞い、
女給(ホステス)をしながら小説を書いてはいるものの、まだ女人芸術しか仕事がなかった林芙美子がきつい左内坂を登って原稿を持ってくると、「これで帰んなさい」とタクシー代をもたせたり、着物をあげたりしていた面倒見のいい、いつでもいろんなことをきちんとしていた長谷川時雨が、
このお墓を見たらなんて言うだろう?
                              
何ていうだろう? というか、そういう次元じゃない。
あってはならない。
あの時雨さんの墓が荒れているなんてうことは。
そんなことはあってはならない。

(と、2016年感傷的に書いていますが連載5回目を迎える2018年現在、時雨さんは時代時代の出来事をそのままに受け止める方だとわかっているので、きっとご本人は ”わたしも子を産んでないから仕方ないわね” といった具合に意外とさっぱりしているように思う)
                              
必要なのは正装でも花でも線香でもなかった。
必要なのは軍手であり、カマであり、そういうものたちだった。
同時に故郷の墓で、いかにそういたものが必要でなかったか、理由が身に沁みた。母が通ってくれているからである、カマと軍手を持って、いつも。
だからこそ、わたしは、墓を参る、という行為は掃除が大前提であると気づいていなかった。故郷から遠く離れた鶴見の、他人のお墓で故郷と家族を、改めて想う。今滋賀に帰らなくとも親族の墓が綺麗であること、当たり前のことではなかったなと。
                              
わたしは近くの水場に戻り、桶を二つに増やして、ちりとりと芝ぼうきも取ってきて、まずは石畳の草を抜くことから始めることにした。

没するものに目を向ける。それはどういうことなのか、
具体的に草を抜くわたしの手のひらにこびりつく緑色が、
わたしにその答えを教えてくれ始めている。

                           〈続く〉

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<桃果子より>
初回ちょっと長くなりましたが、
基本的にはもっと少ない分量での展開をイメージしています〜

がんこエッセイの経費に充てたいのでサポート大変ありがたいです!