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親が病気になるということ。しかも、それは急性期の心の病気だった。

家族が病気になるということは、ある日突然に身にふりかかってくることが多い。
私の場合は、それが母だった。当時まだ自分が学生だったこともあり、本当に自分の人生の中で、最大級にショッキングで脳天を撃ち抜かれたような体験だった。

時々私があまりにもタフなので、「物凄く死にかけたとか、壮絶ないじめにあったとか、何か壮絶な体験をしたとかあった?」と聞かれることがあるけれど、この母の精神的な病の経験が私のこれまでの人生において一番壮絶な体験だったと思う。

でもこれは、当時は珍しかったものの、現代に生きていればきっと誰にでも起こり得ることで、今はそう珍しいことでもない。
だから、自分の経験が誰かの役に立つかもしれないので、少しずつ書いていこうと思う。

この世の中で、私のように自分の家族が精神を病んでいる立場に置かれている方、それが我が子かもしれないし親かもしれないし、兄弟かもしれない。
または当事者という方もとても多いと思うので、少しずつ自己開示していくことにする。

時をさかのぼると、福岡から上京した私が看護学校を卒業し、都内で就職するタイミングだった。
私は自分のことで忙しく、実家にはほとんど帰れていなかったのだが、母との連絡は豆にしていた。
そんな母の様子が電話越しに何かがおかしいと気づいたのは自分の身の回りが少し落ち着いたときだったと思う。
母に電話をしても繋がらず、繋がったと思ったら、すぐに切れたりして、父が出てくることが増えた。
母が買い物依存症になり、ブティックのあちこちで買い物をしてきて、カードの請求額が異常な額になっているということだけが父からの情報だった。

電話越しに母が話している内容も、なんだか後味が悪く、いつもの快活な聡明な母ではなかったため、だんだん心配になっていった。

突然の帰省 東京→福岡

そうこうしているうちに、いよいよ母と連絡がとれなくなった。
父はまだ働いていたのと、私の兄弟もまだ学生だったので、忙しくしており、一緒に住んでいながらも母のことがあまり分からないと言っていた。

母の様子がどうしても気になった私は、母には告げずに休み期間を利用して、急遽福岡に帰省をすることにしたのだった。

東京から久しぶりに福岡に戻り、地下鉄に乗って実家に到着し、自宅から福岡タワーが見える景色は子どもの頃と何ら変わっていなかった。

私は実家のインターホンをピンポーンと鳴らした。
何回押してもなかなか出てこない。
誰もいないのかな?と自分の持っていた実家の鍵を探して、中に入ろうとしていた。

すると、急にガチャっとドアが開き、中から人が出てきた。電気もつけず、薄暗い中から現れたのは、恐ろしく痩せこけて、髪が落ち武者のように乱れ、げっそりとした別人になった母の姿だった。

薄暗い部屋の中で落武者のような母が無言で立っていた。

私は初めて見る母のその姿にゾッとして、生まれて初めて自分の実家の敷居を跨ぐのに、生唾を飲み込むくらいにドキドキとした嫌な緊張感を感じたのだった。明らかに異常だと感じた。

一人緊迫した空気の中で、薄暗くヒヤッとした室内に異変を感じながら、緊張しながら玄関から廊下を歩き、リビングへ歩いていった。

私は緊張感を表情に出さずに平静を装い、「気になったけん帰ってきたよー」と極めて明るい態度を振る舞って部屋の中に入った。
自分の実家なのに、緊張して足がすくんでいた。

そこで私がリビングに入ってすぐに目に飛び込んできたのは、天井の至る所に貼り付けられた銀色のアルミホイルだった。
そして、窓に覆われ張り付けられたアルミホイルも目に入った。
極め付けは、壁に貼られたカレンダー。
暗号のような文字がびっしりと書かれていた。それは物凄い衝撃だった。

「あ、お母さん、精神やられちゃってたんだ・・・・」自分の母が壊れたんだという現実に直面した私は息を飲んだ。

薄暗いリビングで、家族が誰も気付けなかった現実に呆然とし、これから母をどうしたらいいんだろうと混乱し、どうしようもない不安に襲われた気持ちを鮮明に覚えている。

だけど今となっては、私がそうした異常性にすぐに気づけたのは、看護学校での微々たる知識があったからだ。
本人も家族も、何が何だか分からないままに精神症状が悪化したケースを、その後ナースになり精神科に勤務した際に多く見てきた。

だから、誰も悪くない。
自分を責める家族も多く見てきた。
でも、そうではないよって伝えたいし、それで自己概念まで低くなってしまっているような人がいたら抱きしめたい。

『これはまずい。本当にまずいことになった。』

カレンダーにビッチリと書いてある細かい謎の奇妙な文字。
ぶつぶつと独り言を言って急に怒り出す。
統合失調症の急性期によく見られる症状だった。

その夜、私はお風呂に入り、ようやく安心できる一人だけの空間に安堵し、入浴しながら今日一日を振り返って放心していた。
そして、これから母をどうやって病院に連れていくか、満身創痍で考え事をしていた。

すると、急に浴室のドアがバァン!!と開き、母が物凄い形相で入ってきた。
「東京の垢を落とせ!」と叫びながら、母が自分自身に使っていた白髪染めのカラーリング剤を私に振りかけてきた。

「東京の垢を落とせ!」「東京の垢を落とせ!」「東京の垢を落とせ!」母は叫んでいた。

カラーリングで血のように染まっていく湯船。

私は父を大声で呼び、素っ裸で母の手を抑えた。
父が浴室に入ってきて、自分は素っ裸だったけれどそんなことはどうでもいいくらいに切羽詰まった状況だった。
私はどうにか母を封じ込めなければいけないと必死に父に助けを求めた。

だけど・・・。こうゆう時に出す人間の力というのは、本当に「鍛冶場の馬鹿力」という言葉の通り、物凄い威力があるのだ。
父は母から投げ飛ばされ、足の親指の爪が剥げ、流血していた。
必死で母を振り払った私はとりあえず110番に通報した。
おとなしい温厚な父が声を荒げ、カオス状態。
警察が来て、事情を説明すると、母は取り押さえられた状態で署に連れて行かれた。

深夜の警察署

どうしてこんなことになったのか・・・
殺されるとまでは思わなかったものの、とにかくこの異常な状況に、家族全員がアドレナリンが出まくった状態で、深夜の警察署で私は放心していた。
まるで犯罪者にでもなったかのような深夜の警察署。

私は「精神病だと思うので、病院へ救急で受診したい」と訴え、どういう経緯かは忘れたが、本人の同意はなかったが暴力行為もあったため、緊急の医療保護入院となった。(医療保護入院とは、本人の同意はないが入院が必要と医師に判断され入院することができる制度のことだ)

一体なぜここまで他の家族に気づかれなかったのだろうと疑問に思ったが、後にこういったケースはザラにあることを学んだ。
また、病気に対する知識がない場合は、受診しなければならないという受診行動までには繋がらないことは珍しいことではない。
実際、母には病識が全くなかった。
(病識とは、その字の如く、自分が病気であるという認識のこと。)

病識のなさは、本当に家族からすると厄介で、病識がないが故に、「健康な自分を病院へ送り込まれた」と治療を受けさせ良くなってもらおうと親身になればばるほど、本人からするとその相手が悪人になってしまう。
私も当時は母から恨まれ、親戚中に私にひどいことをされていると泣き言を連絡されていた。

でもそこでも救いだったのは、自分が微々たることでも、そうした精神疾患の知識を看護学校で多少は身につけていたことだった。
そして、何より、母のことで協力できる父と兄弟が存在していたことだった。

母は私に対する暴言を一日中繰り返していたけれど、「精神の疾患がそうさせているだけだ。本来の母は愛がある母だった」と常々自分に言い聞かせ、辛い状況を乗り越えるしかなかった。

でも、正直、自分の母親に暴言を吐かれ、一生懸命にやればやるほど悪者扱いされると、怒りや悲しみも湧いてきた。

「東京の垢を落とせ!」「東京の垢を落とせ!」「東京の垢を落とせ!」
そんな激しい言葉を使う母ではなかったのに・・・人格が変わってしまった母に、「母」という存在そのものを失ったような、ひどく悲しい気持ちが芽生えていた。
母が存在しているのに存在してしないような感覚だ。

そうして、家族と、母の看病にかなりの時間を使った。
全員が心から疲れていた。
この先どうなってしまうのかというどうしようもない不安と恐怖が襲ってきていた。弟はその時まだ高校生だった。

普通の家族だったのに。どうして…
ある日突然に病というものは身にふりかかってくる。

ヤングケアラーという現実

ヤングケアラーは、若さゆえに注目されるけれど、その「ケアラー」という状況は、当たり前に大人になっても続いていく。
私の弟がヤングケアラーだったことは間違いない。

長くなるので、続きはまた書いていこうと思う。
働く女性に未然のケアを届ける必要性も含め書いていこうと思う。

#心の病 #メンタルヘルス




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