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【舟形木棺の意味するもの】

                     
◇古墳時代の代表格といえば、前方後円墳だ。上空から見れば、巨大な鍵穴のように見えるこの墳丘を「前方後円」と名付けたのは、江戸時代後期の儒学者、蒲生(がもう)君(くん)平(ぺい)(1768-1813年)だ。

 当時、この墳丘が一般に「車塚」と呼ばれていたことから、高貴な人を乗せる牛車の姿を思い浮かべた。古墳を横から見て、低い前方部は牛が引く2本の長柄で、丸い後円部が貴人の乗る車。つまり、車は牛の引く長柄の方向へ進むから、前方としたのだ。この名称のインパクトが強烈で、その後も他の名称が定着せず、200年以上使われているらしい。

 宇都宮に生まれた君平は、幼いころ、先祖が会津城主、蒲生氏郷であることを教えられ、成長してから自ら姓を蒲生と改めた。陸奥への旅の帰路に会津に立ち寄り、先祖の墓参りをしたというが、まさかその会津に、自分が名付けた前方後円墳が数多く眠っているとは、想像もしなかっただろう。

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          (蒲生君平と『山稜志』)

 前方後円墳は、3世紀に奈良盆地に誕生したというのが定説だ。最古の纏(まき)向(むく)石塚(いしづか)古墳のすぐ南には、卑弥呼の墓ともいわれる箸(はし)墓(はか)古墳があり、この2基が造られた年代の墓を「出現期(纏向型)古墳」と呼ぶ。

 会津坂下町には、この出現期古墳が3基もある。(杵(きね)ケ森古墳・稲荷塚6号墓・宮(みや)東(ひがし)1号墓)さらに、桜町遺跡(湯川村)にはそれより古い、纏向型前方後円墳の祖型とされる墳丘があり、「北陸地方から先進的な古墳文化を持った集団が、会津坂下町・湯川村を中心に来往し、初期の墳丘墓・出現期古墳が築造されたと解釈されている」(鈴木啓氏『新しい会津古代史』)という。


 ◇前方後円墳は、「壺型」と名付けられるべきだというのは、考古学者の辰巳和弘氏(『他界へ翔る船』)だ。その形状には、古墳時代の倭人が強くあこがれた「神仙(しんせん)思想」が大きく影響しているという。

 神仙思想は、不老不死の神仙(仙人)になることを信じ、修行よる養生術や、丹(たん)薬(やく)(水銀朱などからつくられる)を服用する錬丹術を取り入れた。
 古代中国の神仙思想では、西方の崑崙山(こんろんさん)が来世の仙界、東海に浮かぶ蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛(えい)洲(しゅう)の三神山が現世の仙界とされ、それらを壺型の世界観で表現した。

 壺型墳(前方後円墳)では、周囲の壕(ごう)に水を張ることで墳墓と現世を結界し、東海に浮かぶ仙山をつくりあげた。古墳内部の木棺や石棺、被葬者に赤色の水銀朱が塗られるのも、神仙の教えによる呪術的な作法だ。

 古墳に副葬される鏡は、神仙像と霊獣を描いた神獣鏡や画像鏡が好まれた。当時を代表する三角縁神獣鏡(会津大塚山古墳でも出土)は、箸墓古墳が築かれた頃から国内で生産され、倭国の支配層にとって重要な装具となった。

 『魏志倭人伝』では、女王卑弥呼が「鬼(き)道(どう)」を奉じて人々をよく統率し「男弟」が彼女を補佐して統治したという。卑弥呼の鬼道は、鬼神(死者や祖先の霊)の祀りを通してみずからの長生を願う道教的な教えをもとにする。

 この時代の会津では「出現期古墳」が造られたが、古墳の築造には莫大な人力と財力、技術力が必要だ。弥生時代のコメ作りを通して、会津は膨大な人口を抱える地域になり、ヤマト王権にも対抗するほどの強大なクニができていただろう。大勢の民を束ねる役割として、卑弥呼のような人物が存在したとしても不思議はない。


◇会津盆地の北西部(会津坂下町~喜多方市)「宇内青津古墳群」は、全国有数の大型古墳群だ。古墳時代前期を中心に古墳が継続的に造られた地域は、ヤマト地域以外にはほとんど存在しないといわれるほど特殊な地域だ。

青巌伝説の地「高寺山」の登山口(見明門)にほど近い「森(もり)北(きた)古墳(4世紀前半)」では、前方後円墳の1号墳(全長41.4m)の後方部から「舟形(ふながた)木棺(もっかん)」の痕跡(全長5.34m)が確認され、木棺の表面を水銀朱やベンガラなどで赤く染めた可能性もあるという。棺内からは特殊な銅鏡「放射状区画珠文鏡」も見つかった。

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       森北1号墳(会津坂下町大字見明字勝負沢地内)
    舟形木棺と思われる痕跡(主軸長5.34m、舳先幅35cm、艫先幅92cm)



 宇内青津古墳群の最北部にある「灰塚山古墳(5世紀中ごろ)」には、木棺と石棺が並ぶ。第1主体部の木棺は全長8.3mもあって古墳の木棺としては最大クラスで、この被葬者のための古墳だといえる。
 「全体に古墳時代の準構造船の形状を思わせる」(シンポジウム「灰塚山古墳の埋葬者」資料)舟形木棺には、大刀・青銅鏡・ガラス製腕飾りが残り、盾(たて)櫛(ぐし)が40以上並ぶ例は珍しいという。


◇古代中国では、舟棺を用いた葬送(舟棺葬)は新石器時代晩期に始まったという。

浙江省杭州の「良(りょう)渚(しょ)文化期(前35世紀頃~前22世紀頃)」の遺跡で発見された舟棺の断面は弧の形で、大木を刳り抜いて磨かれ、葬板の上には赤い漆が塗られていた。

 この時代の舟棺はすべて土葬だが、殷・周時代(前16世紀~前3世紀)になると、長江流域から南の広い地域では「崖葬(がいそう)(棺を崖に吊るす葬法)」が行われた。

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              (崖葬)


 刳(くり)舟(ぶね)(丸木舟)は自然を征服する重要な利器だった。人々は先祖代々の知恵に感謝し、死後の世界でも利用できるようにと刳舟の棺で死者を送った。のちに、霊魂昇天の思想を取り入れると、刳舟を昇天するための道具とみなし、崖葬が行われるようになったという。

 崖葬の断崖は「仙人山」「仙人崖」「仙人石」「仙岩」などと呼ばれた。道教が導くのは神仙の世界だから、飛昇して仙人になることを願ったのだ。

 もちろん舟棺葬は崖葬だけではない。埋葬する舟棺は、戦国時代の末から前漢にかけて、主に四川省方面で用いられた。クスノキをくりぬいて刳舟の形にした舟棺が多数見つかったという。

舟棺なのに海や川に流さないで埋葬した理由は、舟が霊魂を他界に運ぶ役割を果たすからで、思想の根本は崖葬と同じだという。(参考:辻尾榮市氏『舟・船棺起源と舟・船棺葬送に見る刳舟』)


◇ところで、「北陸地方から先進的な古墳文化を持って会津へ入った集団」(前出)のルーツは、これら大陸の道教思想をたずさえ、遠路はるばる舟でやってきた人々ではないか。

喜多方市の「古屋敷遺跡」は、古墳時代中頃の豪族の居住跡としては国内最大級だ。当時の政治・軍事・経済の中心地で、大規模な方形区画施設や倉庫群、祭祀関連施設がある。
 この屋敷の豪族の墓は特定されていないが、北へ約2㎞の灰塚山古墳が有力候補になった。発掘調査が進むにつれ、かなり権威を持つ人物だとわかってきたからだ。

第2主体部(石棺)から出土した人骨は、50歳代の男性だった。魚中心の食生活、持病の腰痛に至るまで細かい分析がなされたが、見事に復元された姿はまるでショーケン(萩原健一)のようにハンサムだった。弥生系の骨格だというから、おそらく渡来系の人物だろう。

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        灰塚山古墳から出土した人骨からの復元
           (東北学院大学のパネル)


 この人物が、広大な古屋敷遺跡を住居として、宇内青津古墳群一帯を支配した豪族だとすれば、隣の舟形木棺に眠る人物は一体誰だろうか。残念ながらこの木棺には遺骨が残っていないが、「竪櫛を組み合わせた葬具を用いた儀礼の存在」(前出シンポジウム資料)があるというから、呪術に長けた女性だと想像できる。

 女王卑弥呼は、「鬼道」を奉じて人々をよく統率し「男弟」が彼女を補佐して統治したという(魏志倭人伝)から、ショーケンは男弟、舟形木棺の人物は卑弥呼(シャーマン)のような人物ではなかったか。もちろん、卑弥呼の時代からは2世紀ほど後だが、会津ではヤマトほど大きな権力争いがなく、古来の統治機構が残っていた可能性もある。

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                 卑弥呼像(wiki)

 もう一人、森北1号墳の舟形木棺に特殊な鏡とともに眠る人物も、呪術を用いて人々を統率した人物に違いない。時代は灰塚山より100年以上さかのぼるが、会津のシャーマンの系統の一人だったいえないだろうか。

 刳舟は太古の人々にとって超自然的な力の創造物だった。刳舟の製作する前には必ず呪術を行う集落もあったという。その魂は、会津の古墳時代にも引き継がれた。現代の日本でも棺をフネ,入棺をオフネイリというから、「死」と「舟」の関係性は今でも私たちの心に宿っているのだ。
                            (終わり)

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