今私が抱えるこの葛藤は、喜ばしい葛藤なのだとも思っている。
私は何をしているんだろう。
そんな風に自分自身を俯瞰してみることが最近よくあるのだ。
自分の想いと、自分の言動が一致していない時に感じる場合が多い。
あるいは、「相手は嫌だろうなぁ」と察していながらも自分の想いを優先させたくなる時に感じることもある。
「本当はこうしたいのに、こうできない!」
「本当はこれ言わない方がいいんだろうけど、言いたくなっちゃう!」
そんな葛藤が勃発する時には、「私は何をしているんだろう」のモードになりやすい。
そんな時は、その葛藤を肯定も否定もせず、ただただ自分の言動や感情を振り返って観察している。
実は今までは、あまり葛藤することもなかった。
自分の言動に明確な目的があったからだ。
「目の前の相手がどうしたら機嫌よく過ごせるのか」
それが基準だったから、いかに相手が心地よく過ごせるのか、嫌な気持ちにならないかだけを考えて言動を決めればよかった。
その時に「私はどう思うか」なんて必要ない。
むしろ邪魔な思考であり、「私は本当はどう感じているか」なんて厄介な感情ですらあった。
相手が機嫌よく過ごすために、相手に好かれるために、何をすればいいのか、何を言えば喜んでもらえるのか、子どもの頃からなんとなく分かっていた。
誰に教わるでもなく……と、書こうと思ったが、考えてみたら私の母もそういうタイプだったので、「相手が機嫌よく過ごすために自分の言動を決める」人の背中はずっと見てきたのだろう。
元々持っていた気質に、さらにお手本となる存在も重なり、私は「目の前の相手がどうしたら機嫌よく過ごせるのか」を考えるスキルがめきめきと上がっていったのだった。
気付けば「私はどう思うか」「私は本当はどう感じているか」を平気で置き去りにして生きるようになっていた。
自分の意見や想いとは異なっていようとも、笑顔で対応できていたのだ。それが例え、近しい関係性であったとしても。
それでも人間だからこそ、本当はたくさんの思いと感情を感じて、抱えて生きていた。
自覚した時には、蓋をした想いや感情たちがゴミ山のように積み重なっていた。
心身ともに無理が祟り、我慢の限界が訪れた時にようやくその蓋を開ける勇気と覚悟を持った。
ひとつひとつ開けていくうちに、「私はどう思うか」「私は本当はどう感じているか」が鮮明になっていく感覚があった。
次第に、「目の前の相手がどうしたら機嫌よく過ごせるのか」よりも、自分の想いや意見の方が大切になっていったのだ。
しかし、長年の思考の癖と、人間関係においての振る舞い方を変えるのはなかなか難しかった。
「私はどう思うか」「私は本当はどう感じているか」と「目の前の相手がどうしたら機嫌よく過ごせるのか」は両立しないことも多くて、どちらを優先するのか葛藤することも増えていった。
ありのままに、我がままに生きるのは、素敵だと思いながらも私にとっては簡単ではなかったのだ。
ただ、今私が抱えるこの葛藤は、喜ばしい葛藤なのだとも思っている。
この葛藤を経た先に、私自身が納得した選択をして生きれるようになると思うからだ。
なんて書いてたら、こんな言葉が浮かんできた。
迷って、悩んで、もがけばいい。
考えて、観察して、次に活かせばいい。
そうやって成長していきなよ。
私はあなたの葛藤を祝福するし、これからも向き合うよ。
ふと浮かんだこのメッセージは、私から私へのメッセージなのだろう。
そして、たまたまこの記事を読んでくれたあなたにとっても、何か届いていたら嬉しいなと勝手ながら少し思う。
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