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「火星のねずみ」1

暗い廊下にぶんぶんとうなるような鈍い光が漏れていた。

それはある夏の夜のこと。季節はまだ七月のはじめだったのだが、あまりの暑さに私はいつの間にか夜中に目覚めてしまったのだった。水を飲もうと台所にゆくと、小さなネズミのような灰色の生き物が、流し台の底に光っているのが見えた。どうやらネズミのくせに生意気に赤いチョッキを着て、流し台にたまった水を飲んでいるようだった。

ネズミは私を背にして立ち、ちろちろと小さな舌で水をなめていたが、やがて自分の肩や腕を舌でなでつけはじめ、器用に毛並みを整え始めた。

あまりに丁寧で鷹揚とした動きだったので、私に気づいていないのかと思ったその数秒後、ゆっくりとこちらを向いた。

「なぜ私がチョッキを着ているのかお知りになりたいのでしょう?」

低く落ち着いた良い声は私を安心させた。よく見るとそのネズミの顔は、ネズミというよりハムスターに似ており、笑った表情には年を感じさせるものがあった。

「このチョッキは、特製のものなのでございます。はるかかなたの火星で手に入れたものなのでございますよ」

ネズミは私の返答も待たずに話し出した。

「あなたさまも夜の夢の中で火星へ出かけたことがございますでしょう?あの赤い星の土の中に住む真っ赤な羽虫を何千匹と捕まえ、生きたまま大きな鍋で蒸して潰すとそれはそれは見事な染料になるのでございます。このチョッキは月の羽衣をその染料で染めたものなのです」

「羽衣ということは、飛べるのかい?」

なんとなしに思いついた問いではあったが、このときから私は、このネズミと話をするのも悪くないと思い始めていたのかもしれない。


つづく

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