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原作潰しが目的 父系コード 0で地獄行き1で天国行き 能動天国受動地獄

1、原作潰し
原作を潰すために、エセ脚本家が存在する。

悪魔崇拝のある作品を格好良く作るのがテレビ局であり、原作通りに創る。
悪魔崇拝の少ない作品を潰す。
銀河宇宙・ウィルス・魔法・ドラゴンなどの悪魔崇拝を格好良く描く原作はキチンと作る。
悪魔崇拝がない作品が流行ると潰すために悪く作る。
結果的に原作が潰れるのではなくて、原作を潰すのが目的である。
エセ脚本家の目的は、悪魔崇拝の少ない作品を潰す事である。サタン側が、そういうエセ脚本家をテレビ局に潜入させる。
悪魔崇拝の少ない作品が流行ると、人々を悪魔崇拝で洗脳できなくなって、人々を地獄へ道連れにできなくなるからだ。

普通に考えれば、いい原作から悪い映像かなんてならない。
だから、映像化で失敗するのは、潰すのが目的だと判断できる。

出版社もそれなりの権力を握っているから、サタンの手下である。

そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。

ルカ福音書 4章6節 新共同訳

何らかの権力を持っている人間は、全てサタンの手下だ。

2、乗り越えられない
自分が被虐待児で苦しみを乗り越えたなんて言っている人が居るけど、実際は乗り越えていない。
自分を攻撃するのから、他人を攻撃するやり方に変わっただけだ。
毒親と同じ事をやっている。
乗り越えるどころか、逆に悪化している。
悪人の被害者から、悪人へ変貌している。
虐待の連鎖がある。毒親に虐待された子供は、自分も毒親になって子供を虐待する。

虐待の連鎖は、実際は、そこまで起きていないみたいだけど。

「米国の心理学者、カフマンとジグラーによる1980年代の有名な研究によれば、虐待を受けて育った人のうち、子供を虐待する人は33%。 残りの67%には自殺や自傷行為、無防備な性的関係など『自分を虐待する』人が含まれてはいるものの、子供は虐待しない。 つまり、『虐待は世代間で連鎖する』というのは誤解を生む安易な表現で、その思い込みで苦しんでいる人も多い。 実際には、早い時期に寄り添って話を聞いてくれる人がいれば、連鎖はしない。 さらに重要なことは、連鎖が起きてしまった後でも回復は可能なのだ。

【児童虐待~連鎖の軛】支援の第一人者「いい親にならなくていい」(1/3ページ) - 産経ニュース (sankei.com)

虐待されると、性的に無防備になって性加害者の餌食になりやすい。
自分を虐待するのから、他人を虐待する方向へ行く場合がある。

3、信用
群集心理を書いたフランス人ル・ボンは、カトリックがサタンの手下の偽装キリスト教団である事実に気付いていない。
サタン側の意向に逆らわない人間だけが出版を許可された時代なのだろう。
一つおかしいところがあると、全てが疑わしくなる。
大事な事が間違っていると、全てが間違っていると感じてくる。
些末な事で間違うのは、そこまで信用を失わないけど、大事な事で間違うと信用を失う。

4、カルトの戯言
加害者の末路を不幸なモノだと言うカルト。
天の主は、加害者の不幸を願えとは言わない。
迫害する者を祈れと言っている。

新約聖書:マタイによる福音書:5章:44節
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

俺も、そういう不幸を願う発言をしたかもしれないけど、謝罪しておく。
申し訳ありませんでした。
敵を愛して、迫害する者のために祈る。
ただし、いくら被害者が赦しても、加害者が改心しなければ、加害者は地獄へ落ちるのは確実である。

5、暴露屋
婚外性交していると、女の取り合いで変な恨まれ方をするから、逮捕されたりする。
暴露屋が逮捕されてるけど、女関係で変な恨まれ方をしているのではないだろうか。
それが真実だとしても、権力者の愛人に恨まれているから逮捕するとは警察や検察は言えないから、政治家から恨まれて逮捕された事にしているのかもしれない。

6、聖書の書き方
新約聖書では、自分への加害は赦せと書いてある。
ほとんどの人が信者なら、どれだけ犯罪をしても赦される。
しかし、今の時代はほとんどの人は信者ではないから、非信者は叩ける人間を袋叩きにするから、犯罪のペナルティーは大きい。
割と上手く聖書は書かれている。
もし、今の時代がほとんど信者になるのが判っていたら、神も聖書をこんな書き方はしなかっただろう。
今の人間の信仰の度合いによって、過去の聖書の文書は変わる。
神が後の時代の信仰の度合いを見てから、聖書を書いている。

7、病原
百年以上も前からの予防接種が原因で病気が増えたのではないのか。
有害無益な予防接種(ワクチン接種) | 船瀬図書館 (min-voice.com)

8、家族も救われるか

二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。
まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。
この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。

使徒言行録 16章31節から34節 新共同訳

パウロとシラスが言った言葉だけど、意味が少し込み入る。
ギリシャ語の原文だと、「神を信じたらあなたは救われる。そして、あなたの家族も同じように神を信じたら家族は救われる」となるみたいだ。

この場面は、看守が脱獄犯を捕まえられなくて逃がして自殺しようとするけど、制止した時の言葉。

そもそも、ある人が改心していなくて地獄へ落ちるなら、他の家族は心配するだろう。
だから、あなたが改心したら、あなたの家族も救われるというのは、家族が安心するという意味だから、誤解ではあるけど、誤解ではない。
なぜ、家族が既に信者に成っていると思わないのだろうか。
その家族は、神を信じているけど、まだ洗礼を受けていないだけかもしれない。
引用部を読んでも、看守の家族が神を信じていない描写はない。
「神を信じる者になった事を家族ともども喜んだ」と書いているから、家族が神を信じない者から神を信じる者になった、などとは書いていない。
使徒言行録は使徒ルカがローマ帝国に提出する宗教史みたいなものだから、ルカはキチンと調べてから書くため、家族が既に信者だったかどうかも調べていたのだろう。
それで看守が改心する前から、看守の家族は信者だったと判ったから、使徒言行録のような書き方になった。

自分が神に立ち帰っても、家族は救われない。
自分が神を信じたら家族が救われるとか言っている人は、聖書を読んだことがない。
他人の落ち度は、自分には何の関係もないから、怒る意味がない。
他人の手柄話は、自分には何の関係もないから、関わる必要性がない。

9、命の実
罪を犯した状態で命の実を食べると、永遠に地獄で焼かれて死ねなくなるから、神はその事態を回避するために楽園から追放した。
魂が滅びて苦しまずに済む進路を残すために、命の実から人々を遠ざけたのかもしれない。

10、神の性別
神に性別があるだろうか。
エヴァに生みの苦しみを与えたから、女という存在が本質的に誕生したのではないだろうか。
神を父と称するのは、父系男系が単純に「コード」なのではないだろうか。
あまり考えがまとまっていないから、何とも説明できない。
一夫多妻・一夫一妻以外の婚姻形態をすると、このコードが乱れて、何か問題が発生するから、多夫多妻や多夫一妻や乱交をしてはいけないと神が警告しているのだろう。
重要なのはコードであって、性別ではないのかもしれない。
便宜的に神を父としているだけなのかも。
俺が主観的に思っているだけだから、根拠はない。
コードとか言われても、ほとんどの人には理解できないし、俺も思い付きで言っているだけだ。
人間の言語力では理解できない領域かもしれない。
コードと説明するよりも、身近な「父」で説明した方が判りやすいし、それで事足りるのだろう。
重要なのは神を信じて掟を守る事であって、どういうシステムなのか分析する事ではないからだ。

聖書で性の問題が書かれているから、どういうシステムなのか、普段から考えているから、こういう余計な事が気になるのが俺も変な癖だ。

11、0で地獄行き
0と1の間には、天と地の差があり、天国と地獄の差がある。
天の主の教えに、貢献するのと、貢献しないのでは、天国行きと地獄行きの差。
貢献の度合いが1と100の間には差がなく平等だ。
どこかの匿名掲示板で一言でも天の主の教えを広めれば、0から1になって、天国へ入れる。
何もしなければ0のままで地獄へ落ちる。
数百万字の文章を書くのと、数百字の書き込みも、どちらも天国行き。

12、能動受動
何で神が居るか居ないかの思考回路になるのだろう。
結構、不思議ではある。
一体、サタン側にどういう洗脳をされたら、こんな思考回路になるのだろうか。
俺も昔は、神が居るか居ないかとか考えていたけど、何でそんな思考回路になってしまったのだろう。
自分で探すという思考回路にならないあたりが、受動的である。
聖書には、神を探さなければならないと書いてある。

しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。

申命記 4章29節 新共同訳

能動的に生きろと神が言っている。
そういうわけだから、サタン側が人々を受動的になるように洗脳したのだろう。
受動的だと、神が居るか居ないかを他人に教えてもらおうとする。
能動的なら、神が居るか居ないかを自分で探そうとする。
尋ね求めなければならないと書いてあるから、尋ねるのも求めるのも能動的である。
神が居るか居ないかを教えてもらうのを待たないといけないとは書いていない。

13、選択権
不幸を選べる幸せ。
恵まれない人は、幸福と不幸の選択肢すらなく、不遇を強制される。
選べるほど恵まれている境遇を自覚すべきである。

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