当事者として語る

先週精神科認定看護師の方々向けの研修講師として、つまり主な役割としては「リカバリーストーリーの語り手」として登壇し、語ってきた。

初めて人前で「当事者として語る」をやったのは、7年位前のひきこもりの社会学において、「ひきこもり当事者」として大学生を前に語るというモノだったと思う。あの時はまだ今ほど自分自身の自己物語が安定しておらず、「ひきこもり当事者」を装いつつその内実は「川田家サバイバー」なんですけどね…!みたいな構成だったと記憶している。懐かしい。

その次は、6年後の福岡で全国ピアスタッフの集いの場で「当事者研究者」として自己物語の提示と研究報告をした時だった。その報告の前にダニエル・フィッシャーのリカバリーストーリーに触れて、大きな影響を受けた。ダニエル・フィッシャーにあのタイミングで出会ったから、ただの研究報告ではなく、ちゃんと自己物語を語ろうと思えた。ただ研究者として研究の知見を報告するのはやっぱり違うよな~と思った。

それと同時にぼくは海外発のリカバリー運動に心惹かれるようになっていった。自分が強く影響を受けてきていた日本の自立生活運動のことを亡くなった立岩真也さんはかつて暗くて、妙に明るい運動というように表現していた。長年ぼくにとって、自立生活運動が持つその妙な明るさは支えであり、希望であったように思う。けど次第にその気持ちに変化が生じていったような気がする。最近は人前でハッキリと、「暗くて、妙に明るいかもしれないけど、結局暗いんですよ…!!」とぼくは言い切ってしまう。このように言い切るようになった自分自身の変化とかはまだ整理できてないところが多い。

そんな実感が高まってきていたぼくにとって、ダニエル・フィッシャーが語るリカバリーストーリー/論はピカピカ輝いて見えた。とても明るくて楽しそうな場所に思われた。第一、自立生活運動の傍にいては自分は「支援者」の立場からしか語れないが、リカバリー運動なら「当事者」になれる。そのポジショナリティの転換は、「自分の人生の主人公になる」のを大きく促進する実践のようにも思われた。

そして、最近いろいろと具合がそこまでよくない中迎えた「リカバリーストーリーの語り手」としての登壇。なんとか語り終え、聴いてくれた方からこんな質問がきた。

「川田さんが希望を人に伝えたり語ったり、発信したりする上で注意していることや気をつけているポイントってありますか?」

はたと思う。ぼくはダニエル・フィッシャーのように精神保健医療福祉分野の人々に希望を伝播させることを可能とする「リカバリーストーリーの語り手」足り得ているのだろうか?

ダニエル・フィッシャーかっけぇー!自己物語語ってみたら、「希望を感じずにはいられなかった!」って言って貰えたし、自分でもこの業界の現場の役に研究以外ですぐに立てそうなのって「リカバリーストーリーの語り手になることかも!?」と思うようになり、ちょうど精神科通院も終えたし、「楽しく、幸せに」生きていきたい!と思うようになって行っていたから、いっちょやってみっか~!と多少の見切り発車で引き受けるようになった「リカバリーストーリーの語り手という役割」だったけれども…。

あるいは社会構築主義やナラティヴの観点からすれば、ぼく自身が本質的に「リカバリーストーリーの語り手」にならなくてもいい、とも考えられるのかもしれない。人は他者との相互作用を通して、「何者か」が同定されていくところもあるだろう。

自分が語る事を他者がどのように聴くか、感じるか、考えるかということは、本当に開かれていて、そうした他者の視点がフィードバックされるのがとっても面白くて興味深い。

ぼくが半生をかけて磨き上げてきた自己物語を語り、その聴き手との相互作用を通じて、自分自身の中に新しい希望が芽生えてくるような場面も確かにある。

最近読んだ小森康永・安達映子 2022『ナラティヴ・コンサルテーション』金剛出版の中に、これは最近の自分の「リカバリーストーリーの語り手としての実践における実感にとても近いな~」と感じた以下のような表現がある。

ナラティヴ・コンサルテーションにおいて「事例は、語られて一つの物語、ナラティヴとして差し出される。そこに様々に異なる語り手や語り方、聴き手や聴き方を配しながら、物語をひらくー荷を丁寧に解くように開き unpack むしろ耕しながら新しい芽を待つように拓いてcultivate いくーことで、それまでとは違ったナラティヴを育むことが、このコンサルテーションの焦点となる」(p. 13)

専門職を前に、ぼくが「リカバリーストーリーの語り手」として現われ語る時、ぼくの自己物語は一つの物語、ナラティヴとして彼らに差し出される。それをどのように受け止めるも聞き流すも解釈するも聴き手の自由だ。そんな聴き手の存在がぼくを開いていく、聴き手からのフィードバックがぼくの自己物語を拓いていき、それまでとは異なるナラティヴがぼくの中に相互作用を通じて形成されていく。そして次第にぼくの人生がひらかれていく。
そんな実感もたしかにある。

7年前だったら、「俺の自己物語はこうなんや~!俺が作者で解釈権も占有しているから、このように聴けや~!?」という気分が強かったように思う。今は、聴き手の自由に身を委ねている。それ自体が大層な変化だなとも思う。

リカバリー運動の中心人物の一人であるパトリシア・E・ディーガンはリカバリーの定義を以下のように示している。

リカバリーは、1つの過程であり、生活の仕方、姿勢であり、日々の課題への取り組み方である。それは完全な直線的過程ではない。ときにわれわれの進路は気まぐれであり、たじろぎ、後ずさりし、立て直し、そして再度出発することもある。求められることは、課題に立ち向かうことであり、障害による難問に対処し、障害による限界の中で、あるいはそれを乗り越て、新たな価値ある誠実さと目的を再構築することである。願いは、意味ある貢献ができる地域で生活し、仕事をし、人を愛することである。

あんまり考え過ぎずに今のペースでええんかな~。
べてるじゃないけど「これで順調!」の精神に切り替えていく。

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