アイデンティティ・ゲームー名づけと名乗りのポリティクス

去年福岡で分科会の講師をした際、「やそらさんはピアスタッフにはならないけど、研究者は名乗るんですね」と言われた。その言葉は当時の自分に深々と突き刺さった。

その後何の縁か、その福岡の地でぼくは8月ごろから「ピアスタッフ」として精神保険医療福祉分野に飛び込むことになっていった。

いろいろなお話を聞いていると、日本の精神保険医療福祉分野で最もピアスタッフの導入が進んでいる福岡市の現場なら自分でもヌルッと入り込めるような気がしたからだった。

実際に働き出してみるとある現場では「ピアスタッフ」としての働きを期待されるようになっていった。ある現場では、三福祉士を持っているのをいいことにヘルパーやPSWとしていいように使いまわされた。

去年の分科会の話を聞いてくれた方の中で、ぼくの自己物語を聞いて、「希望を感じずには居られなかった」と感想をくれた方もいた。最初に「自分にはダニエル・フィッシャーのように希望はまだ語れない」と断ったのにも関わらずにだ。

思いもかけないリアクションだった。

福岡に来てから、ぼくはその方の誘いもあり「リカバリーストーリーを語るピアスタッフ」として人前で語る機会に恵まれた。

他の場面でも、人前で話す中で「語れる当事者」として発信していく決意表明のようなこともしていった。

「リカバリーストーリーを語るピアスタッフ」という立場性/アイデンティティにしても、「語れる当事者」として発信していく決意表明をするに至ったのも、そのような存在として自分を見、接し、関わってくれる頼りになる方がいたからこそできた“選択”だったな〜と、今は思う。

ぼくは基本的に「関係性に生きる生き物」だ。

ある時からある現場でこう言われ始めた。

「やそらさんはピアスタッフとはちょっと違うんじゃないですか?」

去年のぼくの報告の副題はたしか、「ピアスタッフになれないぼくの当事者研究」だったと思う。精神保健医療福祉分野でぼくは基本的に「精神科ユーザー」を名乗ってきていた。

論文を読んでいると日本のピアスタッフは主に社会的入院状態にある患者の退院促進要員として活用されてきていた、そんな歴史性が見てとれた。それならば、そのような「日本のピアスタッフ」において「正統なピアスタッフ」とは、入院経験があり福祉サービスなどの利用経験もある人とでもなるだろう、と「理念型としての日本のピアスタッフ」が念頭にずっとぼくにはあった。

それもあって、「ピアスタッフにはなれないぼくの当事者研究」しか語れなかったのだけれども。

福岡で知り合った精神病者運動の系譜に連なりそうな病者の方にも、「お前なんか当事者じゃないだろ」と酒の席でお互いの信頼関係も込みで突っ込まれたっけ。その指摘も痛いほどわかった。

ぼくは精神科に長年通院したり、主に大学や大学院の学生相談室を利用してきただけの経験しかない。それしか表立って語れる経験がない。

またある人には、「やそらさんはいつから精神病なんですか?」などと質問を受けたりもした。なんとなくその人が「精神病」という言葉に込めてる含意なども汲んだ上で、その場では話を適当に合わせた。しかしぼくは「精神病になった」という実感は抱いたことがなかったし、そのような自己物語も生きていなかった。しかしその方は自分を「ピア」と思ってくれたようだった。複雑な気分だった。

「ピアスタッフ」を便宜上、騙っているような気分もどこかにあった。

ある方には11月中旬以降の自分が潰れている様子を見て、「あなたは本当にピアですね〜」などと言われたりもした。しかしその方にはその後、よくわからないのだけれど、「精神保健の現場にいないで、研究の道に帰れ!弱者の気持ちを分かろうとしないあなたに現場にいてほしくない!」などと暗に叱責された。

概観してみると、皆さん好き勝手に「ポジショントーク」をしてくれている。

トラウマ反応の「闘争」でしかないが、喧嘩腰になりそうな自分がいる。
ぼくは叫び出したい。なんだっていいじゃないか、もっとぼくのことを尊重してくれよ、大事にしてくれよ!

どうせ「エリート当事者」だよ!「当事者研究者」名乗ってりゃ満足か!?
ぼくは疲れ果てた。たくさん傷ついた。

3ヶ月福岡市の精神保健医療福祉分野で働いてみてわかったのは、ぼくは全然その現場に「ヌルッと」入り込めなかった。むしろ気づけば、周囲が仕掛ける数多の「アイデンティティ・ゲーム」という舞台の上で存在証明に駆られていた。

現場にいて疲れ始めていた頃、ボンヤリと思ったことがある。

ぼくは論文を書く際、考察部分を書くのがもっとも好きだ。
数多の先行研究で主張されていることなどを抑え、概観し精査した上で、それらの間隙を縫ってオリジナリティのある知見を導き出す。必死に絞り出して導き出された知見は、その後の自分の生きる指針ともなり得る。その理論はその後の自分の生き方レベルへと落とし込むことで、理論と実践を連動させる。

不器用なぼくの恍惚と緊張の瞬間だ。

論文上では、そのように自分が「誰」で「何」であるかを、ゆっくりと熟考しながら明らかにしていくことができる。のに、福岡の現場に飛び込んでから、そうした作業を論文上のそれの100倍以上のスピード感で即時的に、その場の即興のコミュニケーションを通して明らかにしていかないといけないような感覚に見舞われていたのだ。

とにかく目まぐるしかった。

結果11月一杯で、精神保健医療福祉分野から完全に撤退した。

多くの職場で孤立感を覚えた。「自分で決めてできる業務」がなく、上が決めたシフトをこなすことを求められたり、とにかく現場に放り出されるみたいな雰囲気が強いように感じた。

それと連動して、周囲が仕掛けてくるアインデンティティ・ゲームへの対応の連続だ。ぼくの自己イメージはしばしば揺るがされ続けていた。

こうして、福岡での生活でぼくの“自律“は脅かされていったように思う。

個人の“自律“は、周囲との良好な関係性や環境を通じて担保されるものだからだ。

何はともあれ、ぼくは名実共に「ピアスタッフ」ではなくなった。

ぼくの物語は今後どう展開されていくのでしょう。
何に接続していくのだろう?

ところで修論でぼくは精神保健医療福祉分野における「当事者論」の項で「名づけと名乗りのポリティクス」という副題をつけてまとめていた。

福岡市の精神保健医療福祉分野に「ピアスタッフ」として飛び込み、そのように見なされ、扱われ、自分でも武器として名乗っていたいたかと思えば、その正統性を疑われ剥ぎ取られる。

まさに「名づけと名乗りのポリティクス」だ。

「ピアスタッフ」「リカバリーストーリーの語り手」という立場から、いろんな人たちと手と手を取り合って、この業界の問題を考えていきたい、いろいろやっていけたらと思って、「語れる当事者」としての責任もイヤイヤながら引き受けると宣言したばかりだったのにな〜。

もうなにもしたくないよ。
どうせ「当事者」なんて、割を食うポジショナリティなんだもの。

だから、一度さよなら精神保険医療福祉分野!
ぼくはもっと泥臭くて熱くて人間クサイものが好き!!

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