学校へ行かない選択をした日のこと

小学校から中学高まで不登校だった。
修学旅行とか体育祭とか、そんなイベントも全く参加した経験がない。

普通の人とは違う子供時代を過ごしてきた。
周りからは将来のことを心配されたし、直接言われたことはないが、
厳しい目で見ていた人もいただろう。
親は教師や親戚から、嫌なことを言われていたかもしれない。

そんな日々を過ごしてきたが、高校卒業後は留年せず大学を出てそのまま就職した。
今もまだ大手ではないけれど、辞めずに10年以上働いている。

それは私の環境のおかげもあるかもしれないが、
「学校へ行っていない」=「悲観的な将来」には
私はならないと思う。

もし、親御さんや親戚や不登校当事者の方にとって為になるならと思い勝手ながら、自分の不登校の経験を少し書いてみようと思う。



不登校のきっかけ


学校へ行かなくなったのは小学校2年生の頃。
当時の私は場面緘黙があり、いじめられたり、馬鹿にされたりしていた。
けれど、学校を休むという選択肢を思いつかなかったし、
風邪以外では休めないものだと思っていた。

きっかけは風邪で学校を休んだことだった。
熱が出て、親からは学校を休むように言われた。
体がしんどくて、寝てアイスとか軽いものを食べた記憶がある。
それから2~3日して熱も下がってきた。
「学校へ行ってもいい」と医師から言われた。
けど、私は「今日も休みたい」と言った。
親は体がまだしんどいのだろうと思い、そのまま休ませてくれた。
でも、風邪ではなかった。
学校へ行かないということに心が休まっていたのだと思う。
きっとあのころの私は学校へ行くこと、過ごすことに疲れていた。
風邪をきっかけに休んだことで、心が休まったのと同時に、学校へ行きたくない気持ちが高まっていた。
それで、親に行ってみたら呆気なく受理された。

風邪はもちろん治っていたが、私はそのまま一週間は休んだ。
さすがに親も別の意味で心配して、学校へ行くことを多少促しはしたが私は休みたいと主張した。
親もその頃には、私が体調不良ではなく休みたいと言っているのはわかっていただろう。
でも、親は私を無理やり学校へ連れて行ったり、厳しいことを言っていた記憶はない。
とても私に優しかったのだと思うし、私がもともと緘黙的なところもあったのでこんな日が来ることを予想していたのかもしれない。
(尋ねたことはないけれど)

それで私の不登校生活がスタートした。
兄弟が幼稚園に行ったあと、私はほとんど家で母と二人で過ごした。
NHKの子ども番組を一人でみたり、母とお菓子を作ったりしていたと思う。
あとは買い物や兄弟のお迎えについていったりしていた。
平日の昼間に一人で出かけることはなかった。
さすがに子供一人で出たら咎められないか怖かった。
それは小中の学校へ行っていない時期、ずっとそうだった。
土日になれば、一人で外で出たので外へは一人で出ることができた。
とても、近所だっただけど、習い事も一人で行っていた。

このときは勉強はしていた記憶がない。
これまでずっと学校で過ごしていたから、毎日退屈する日もあったと思う。
でも、当時の私は学校(教室)へ戻りたいとは思わなかった。
だって、学校に良い思い出がなかったから。
唯一は当時、図工が好きだったから、図工の授業が受けれないのが残念だったくらいだ。
休み時間、クラスメートと過ごすのも、体育も、運動会や遠足も好きじゃなかった。

教師の反応


 当時、私のクラスの担任は真面目そうな女の先生だった。
普段は優しくて、ときに厳しい先生。
年はたぶん30代後半ぐらいで歴も長かったのだと思う。
生徒のことをよく見ていた。本人のために厳しくする側面もあった。

私はクラスに馴染めていないし、授業もついていけず、体育もうまくできなかった。
運動神経の悪さもあったけれど、サッカーやドッジボールとかチームワークが必要とするものが苦手だった。
サッカーなんて、どこに動けばいいのかわからなくて、同じグループの子に怒られて、先生からも怒られた。
「まじめにやりなさい」と言われたけれど、まじめにやっているつもりだった。
ただ、ボールを追いかけるだけで、どうすればいいのかわからず、何も出来なかったのだ。

どの生徒にも平等に対応する担任であったが、私が学校へ来なくなるとだいぶ対応が変わった。
まず、ほぼ毎日に近いぐらい夕方にやってきた。私は会うときと会わない時があったけれど、どちらにしても毎回プリントと一緒に手紙をくれた。
手紙にはその日のクラスの出来事などが記されていたように思う。
また時々、特別授業などの時は「この日のこの時間だけでも来ませんか」と誘ってくれることもあった。

当時は、ほぼ毎日やってくる担任が嫌とか嬉しいとかの感情はなかった。
ただ、やってきた時の担任の口調や手紙の内容がとても優しい口調だったので少し驚いていた。
クラスではもっと厳しいイメージだったから、こんな風にしゃべるんだ。と意外だった。
親がいる手前と、私を学校に戻したい気持ちもあったのだと思うけれど、先生の違う側面を見たような気がした。

私は先生のことが当時も今も嫌いでもない。
好きかというより、世話を焼いていただいて感謝の気持ちに近いし、とても立派な先生だった。

今になって思うと、先生も大変だっただろうと思う。
完全な時間外労働だし、普通の業務にプラスして手紙やプリントなど多大な手間を費やしていたのだ。
謝れるなら、ご迷惑をお掛けして申し訳なかったと謝りたい。

私が不登校になった時期は今ほど、不登校の数も多くなく、そこまでメジャーなものではなかった。
もしかしたら当時の小学校で私一人だけだったのかもしれない。
だから、学校も担任の先生も困惑し、対応に困っていた可能性は高い。
担任も、自らの意思ではなく、教頭や校長から指示されて私の家へ毎日通ったのかもしれない。
担任に対する周囲からの風辺りが強くなっていたのかもしれない。
(そう思うと尚更申し訳ない)

今であれば、不登校の対応の仕方みたいなマニュアルとか対応の仕方が色々あり、もう学校側もスムーズに対応できたかもしれないし、親も学校と私との間で悩むことは少なかったかもしれない。

さて、そんな日々も小学3年生に上がり、先生の毎日の家庭訪問は終わった。
担任が変わり私は不登校生活の継続を決めていた。
親は学校にそのことを伝え、また親が断ったのか、わからないが新しい担任が家にやってくることはなかった。

クラスメートの反応
私が学校へ行かなくなり、クラスでどんな反応があったのかはわからない。
担任からは「クラスのみんな、来るのを待っているよ」と言われたけれど、まさか逆のことが起こっていっても、それを言葉にすることはないだろう。
比較的親しかったり、優しい子は時々、手紙をくれた気がする。
わざわざ、放課後の遊びに誘ってくれる子もいた。
何度か参加した気がするが、ほとんど受け身で回りに合わせていた記憶があり、楽しかったとも嫌だった記憶もあまりない。

私に嫌がらせをしていた子も、クラス全員の寄せ書きみたいなものには、優しい言葉を書いてくれた。
当時は、私のこと嫌いじゃないん?と疑問に思ったけれど、今になって思うと親や教師も見る様なものに、ひどいことは書けなかっただろう。
それに、のちに学校へ一時期復帰した際に、いじめていた子は私のことをいじめることはなかった。

友達から遊びに誘われるのも、手紙をもらうのも当時嫌ではなかった。
幼すぎて、誘いに「応えなきゃいけない」という重圧もそれほど感じていなかった。
ただ困ったのが「なんで学校に来ないの」と聞かれることだ。
私は黙って首をかしげることしか出来なかった。
「いじめられたから」「先生に怒られたから」「集団生活が合わないから」どれも要因のようであり、なんか違う。
「疲れた」という言葉が今思うとしっくりくる気がする。
当時の自分は言葉が見つけられず、どう答えたら良いのかわからなかった。
それを、悪気はないとわかっていて、友人も私の為に聞いてくれているのかもしれないが、
なぜ学校に来ないのか、問われることが苦痛だった。
きっとその問いの答えがあれば、親や教師の方が喜んだだろう。
でも、自分で明確な理由がなかった。

そんな風に不登校の生活が始まった。

だらだらと書いてしまったけれど、
こんな文章に需要があるのだろうか。
需要があれば、書くかもしれないし、需要などなくても書くかもしれない。

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