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【連載】負けない 第8話

 手術後一年が経った。悦子の体力が徐々に戻ってきた。
 休職していた職場に復帰し、仕事を始めた。子供に手はかかったが家族三人に笑いが戻った。

 平成十九年五月のある日、検査のため病院に向かった。
 毎月一度、通院している。
 その日は、翔が幼稚園に行きたくないと朝からぐずったが、弘が無理やり連れて行ってくれた。
「今日は病院だから、駄々を捏ねないでね」
「ママまた入院するの」
「違うよ、毎月一回の通院日なの。いい子にしているのよ」
「ママが病院行くんだったら、僕も頑張って幼稚園に行く」

 翔は口を尖らした。

 いつものように病院は混んでいた。
 悦子の順番がきた。
 担当医の菅原先生の部屋をノックして部屋に入った。

「尾藤さん、先月の検査結果が出ました。
 .…残念ながら肝臓と右肺に転移しています。これから入院して、抗がん剤治療となりますが」と、先生はいとも簡単に話し始めた。

「先生、待ってください! もう少し詳しくお話してもらえませんか」

「実は、胃がんがステージ四でした。転移してなければいいがと案じていましたが、その予想が的中しました。
 これからは抗がん剤治療を行って、少しでも癌を小さくし、手術をする必要があります」

「先生、手術をしなければ私の命は.…」

「もって六か月」

 どうして、私だけがと悦子は思った。
 驚きと同時に、激しい憤りが込み上げてきた。
 まだ五歳の翔を残して死ねない。
 私は尾藤家に嫁いできてから全く良いことが無い。
 尾藤家の業を一身に受けて死んでいくのか。いや、まだ希望を持て。死ぬと決まったわけではない。負けるものか! と拳を強く握りしめた。

 その夜は、翔が寝てから弘と二人で涙が枯れるまで泣いた。

 ベッドが空き次第入院となる。早くても一か月後。

 弘は休職し、悦子に寄り添うことにした。

 悦子は入院までの一か月の日々を無駄なく生き切ろうと思った。しかし、普段の生活とほとんど変わらない生活が続いた。
 自分の躰である。どうしても最悪のことを考えてしまう。しかし何とか生き延びて戻ってきたい。
 偽らざる心境だった。万が一のことを考え、弘と翔宛てに手紙を書いた。
 その書いた手紙を、日記帳に挟んだ。もし、自分がこの世から居なくなって弘がその手紙を見つけてくれたら、読んでほしいとの思いを込めて...…。

 入院生活は、悦子の体を徐々に弱らせた。抗がん剤治療はそれほど芳しくなかった。だんだん痩せ細っていった。

 ある暑い日の日曜日、弘と翔が病室に来てくれた。
 その日は気分がよく、許可をもらい病院の中庭を三人で散歩した。悦子の青白く透き通った顔に容赦なく太陽光が照り付け、悦子は一瞬めまいを感じた。
「今年は猛暑だ。毎日暑くて洗濯の回数が増えたよ」
「あなたに苦労かけてすまない」
「早く良くなろうね」
 弘のその言葉が、悦子には心底、身に染みた。

「翔、パパと一緒に頑張ろうね」
「ママ、僕 寂しいけど頑張る。早くおうちに帰ってきて」

 悦子は、痩せ細った体を折り曲げて、初めて翔の前で泣いた。

「ママ、泣いたらダメ」と翔が言った。悦子は涙を拭き、

「よし!ママがんばるから 負けない!

「その意気、その意気」と弘が励ます。

  その翌日から、体調の思わしくない日々が続いた。

 まだ残暑が残る九月の末、弘に病院から呼び出しがあった。担当医師から、状態としては良くないことと、年を越せるかどうか微妙な状態であることが伝えられた。

 病室に戻ると、悦子は、先生からの話の内容がすべて判っているような素振りを見せた。
 弘は努めて明るく装ったが、悦子はすでに、お見通しだった。
「あなた、下手だわね」
「そうか、俺 嘘つけないから」
 悦子の目から涙がひと筋流れた。
「本箱に私の書いた日記帳があるでしょ。私が逝ってから読んでね」
「えっ、日記帳?」
「そう」
「ママの言っていること意味不明」と弘が言ったので、その場は二人で笑った。
 その後、その日記帳の事は、弘の頭から消えさったようにみえた。

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