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【連載小説】リセット 10

 急に雲行きが怪しくなり、雷が鳴りだした。
 北島芳樹は、地下鉄で神保町駅を降り、水道橋駅寄りの一軒家に向かった。平日の昼下がりのことだった。
 神保町交差点界隈の古本屋街を水道橋方向に向かい、途中左折して細い路地を抜けると、趣のある二階建ての一軒家がある。つたが壁をはっている。

 近年、神保町からその界隈にかけては、新しいビルやマンションが建ち、昔の佇まいが薄れてきている。
 七月のその日の予報では、大気の状態が不安定で、午後から急に落雷と雨が局地的にあると報じていた。
 芳樹は雨具を持参するかどうか迷った挙句、用意はしてこなかった。朝、ベランダに干した洗濯物が心配だった。
 
 芳樹はずぶ濡れになっているのも構わず、目的の家の玄関ベルを鳴らした。
「どちら様ですか?」と家の中から女性の声がした。
「北島ですが」
「ちょっとお待ちになって」
 玄関扉が開いた。
「あら芳樹さん。ずぶ濡れじゃないの!」
「ゲリラ豪雨というやつですかね、おかげでこの有様です」
「あらあら、さあ早くお入りになって」
 芳樹は家に入り、玄関で突っ立っていた。松江の妻はタオルと着替えを持って足早に奥の部屋から走り寄り、芳樹を玄関脇の応接間へ導いた。
「ここで着替えてくださいね」
 着替え終って暫くすると、お茶を持って松江の妻が入ってきた。
「いやー、申し訳ありません。おかげで助かりました」
 芳樹は頭を搔きながら照れるような素振りをした。
「お洋服を干しますから、乾くまでそのパジャマを着ていてくださいね。主人のものですが、早く着替えてくださいな」
「ありがとうございます」と言ってパジャマを受け取った。
「ところで、今日はどのようなご用件で? あいにく松江は留守ですのよ」
「はあ、実は先生に近況などを、ご報告と思いまして」
 芳樹は、それ以上の言葉をはばかった。そして、
「先生は何時ごろ戻られる予定ですか?」
「それが、今朝出がけに今日は遅くなりそうだと言って出かけましたのよ。教授連中の集まりがあるとかで。電話でもいただければよかったのに」と松江の妻は、残念そうな顔を芳樹に向けた。
 芳樹は事前に連絡を入れていなかったことを悔やんだ。
「そうですか。また日を改めて、お伺いするとします」
「お洋服が乾くまで、暫くゆるりとしてくださいね」
「ありがとうございます。そうさせてもらいます」
 松江の妻は応接間を出て行った。

 芳樹は昭和が漂う応接間で、長ソファに体を横たえた。
 昨夜仕事で帰宅が遅くなった。その日は平日だったが、休みをとり早めに家事をこなした。寝不足のせいか、つい眠ってしまったようだ。

 小一時間も経ったころ、扉のノックで目が覚めた。
「お洋服が乾きましたよ」
 乾いた芳樹の衣類を持って松江の妻が部屋に入ってきた。
「ところで、芳樹さん、その後元気にお仕事やっているそうじゃないの。幸子から聞いていますよ」
「はい、何とか。その節は先生と奥様に大変ご心配をお掛けました」と芳樹は恐縮した態度を示した。
 松江の妻は少し怪訝そうな、それでいて健やかな笑いを芳樹に見せた。

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