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【短編小説】亡魂の叫び


  いまから三十年ほど前、隅田睦夫は入社してほどなく、北陸の
ある都市に転勤になった。
 当時彼はまだ独身だった。赴任先では外廻り営業が主だった。
 
 ある日、日本海側の寂れた町で夕方になってしまった。睦夫は支店に戻るのも億劫になり、旅館を探して一泊した。

 睦夫はその旅館に踏み入れた時、何か不吉な胸騒ぎがした。
 古めかしく長い風雨に辛うじて耐えてきた建物のようだ。
 睦夫には一階の部屋があてがわれた。その日は泊り客が彼以外誰もいなかった。

 白髪で猫背の老婆が一人で布団の上げ下げ、調理場での料理、フロントをこなしていた。従業員は他に誰もいなかった。
 ひと風呂浴び、晩飯にありついた。料理は精進料理と見紛うものだ。満腹感は味わえなかった。
 いやに寂れた旅館だと睦夫は感じた。
 空腹を紛らすために、その夜は早く寝た。
 
 夜半、奇妙なことが起きたのである。
 
 八畳ほどの部屋である。
 外では日本海の荒波が弾け散り、海風が窓を揺らし、建付けが悪い窓の隙間から、寒さが風とともに部屋に忍び寄る。
 睦夫は身を固めて布団に包まった。
 そして直ぐ眠りに落ちた。
              
 暫くして目を覚ました。
 何処からか風の音に紛れ人の声がするではないか。その声が徐々に大きくなってきた。
 耳をすますと、
「火事だ!火事だ・・・」と、風に乗り、叫ぶ声が聞こえた。
 その声が時折大きくなり、また遠くで叫んでいるようだった。
 
 キナ臭い匂いがしてきた。睦夫は飛び起きた。部屋の明かりは点かない。
 手探りで着替え、荷物をもって玄関に急いだ。

 振り向くと、食堂が真っ赤に燃えていた。

 炎の中で、あの老婆が仁王立ちして、こちらをにらみつけている。睦夫は驚き、
「婆さん、逃げろ!」と大きな声で怒鳴った。
 しかし老婆は立ったまま、じっとこちらを睨みつけていたのである。

 睦夫は火の粉の中、這うように外に出た。
 炎は屋根まで上がっていた。
 風にあおられ、火の回りが早かった。

 その街の自治消防団の一人である若者が這い出てきた睦夫を見かけ、
「え?あんたここに泊まっていたの?」と言うではないか。
「僕だけだ」とせき込みながら答えた。
 睦夫は恐ろしさと息苦しさとで、その場にうずくまった。
「どうしてこのようなところに泊ったの?」とその若者が睦夫に聞いた。
 睦夫はその質問には応えず、
「ここの婆さんが食堂に居た。炎の中で仁王立ちしていた」と話した。

 その若者は、一瞬驚き、そして、意外な言葉を発した。
「ここの婆さんは、つい一か月前、亡くなったがね」
  睦夫は、驚きのあまり、言葉を失った。

 睦夫は、取合えず町営の施設に移動し、そこで一晩過ごした。
 あくる朝、警察官が、睦夫に話が聞きたいと待機していた。
 昨夜、町営施設の駐車場まで乗り付けた会社の車は、辛うじて類焼は免れたが、火災熱で使用できるかどうか疑問であった。
 睦夫は支店に連絡を入れた。その後、パトカーで派出所に出向き、昨晩の顛末を説明した。

 睦夫の説明を聞いていた警察官は、
「隅田さん、いまあなたは、食堂での老婆の仁王立ちしていたという話をしてくれましたが、実は、あの旅館ですが、今は廃業して、誰もいないのですよ」と言った。
 睦夫は背筋が凍った。
「え?誰もいない?」
「本当ですよ。一年前に廃業した旅館に隅田さんは泊まった訳です」
睦夫は信じられなかった。鳥肌が立った。

・・・・・・・

 その後、彼は、また別の怪奇現象に遭遇したのである。
 その出来事は、ある年の春先、睦夫は仕事で海岸沿いの国道を走っていた。
 その日は日本海沿岸特有のどんよりとした空模様だった。
 暫く走っていたころ、遠くの道端に一人の女性が立っているのが見えた。
 身なりは、ここら辺りの人のそれではない。徐々にその女性の姿が大きくなった。睦夫は車を止めた。

「こんなところで、どうしたの」睦夫が声を掛けても、女性は無言であった。
 顔は青白く、目は虚ろで、髪の毛は乱れている。口紅は付けていない、憔悴した姿だった。
「もしよかったら、隣町まで乗っていきますか」
 その女性は、頭を下げた。
 睦夫は後部ドアを開けてその女性を乗せた。
 持ち物は何も無い。

「どうして、あそこにいたのですか。なにか事情でもあるのですか」
 そう尋ねても無言なのだ。

 それから三十分間、会話無しで走り、車は隣町に入った。睦夫は自分の体が硬直するような感覚を味わっていた。
 しかし、どうしても気になり、チラリと後部座席を見た。ところが乗せたはずの女性の姿が消えていた。

 いったん車を止め、後部座席を確認したが、誰も乗っていなかった。
 睦夫は背筋が凍り付いた。確かに乗せたはずだ。今は乗っていない。降ろした覚えもない。
 車のガソリンタンクの表示が点滅しだした。もう少しでスタンドが出てくるはずだ。

 無我夢中で車をガソリンスタンドに入れた。
 給油をスタンドマンにお願いして敷地内の休憩所に入り、事務の若い女性に聞いた。
「いま、女性を乗せてきたのに、途中で消えてしまった」
 気が動転していたのか、睦夫の話す言葉がチグハグだった。
「あーあそうでしたか。二日前にも同じようなお客様がいましてね。消えたというんですよ」
「そうでしたか、以前ここから二十キロメートル手前の場所で事故か何かありましたか」
「そういえば、半年ほど前、お客様が女性を乗せた辺りで、車同士の衝突事故がありました。若い女性が亡くなりました」

 国道といえども、左右一車線ずつで車が対向車線にはみ出して来たら、一溜まりもないのだ。

「そうでしたか」睦夫の顔が青ざめた。背中から肩にかけて、どっしりと重いものが乗ったような凝りが感じられた。

 ・・・・・・

 北陸時代、睦夫にも淡い恋の花咲く時もあった。

 転勤で日本海側のその街に来てから、五年が経っていた。

 仕事帰りに支店の同僚とよく飲みに出かけた。給料の大半が飲み代に消えた。
 二軒目の店は、繁華街の裏通りにあるスナックで、ヤマユリという屋号の店だった。
 そのヤマユリという店には、六十年配のマスターと百合というまだ若い女性がその店を手伝っていた。

 何回か通ううち、睦夫はその百合という女性に恋をした。
 しかし運命の出会いはその後、彼女と二度と会えない悲しい別れとなってしまう。

 ある日を境にその百合という若い女性は店から消えた。
 マスターに聞いてもちょっと病気でねというばかりだった。

 睦夫がそのヤマユリに通い始めて一年後の秋も深まったころ、一週間ほど、その店が休んだことがあった。

 その後再開したが、マスター一人だった。
「どうしたの」と聞くと、マスターは、気落ちした声で、
「娘の百合の葬儀でね」と言った。
 睦夫は目を大きく見開いて、嘘でしょうというしかなかった。
 ショックだった。
 酒が回るほどに睦夫の目からは涙が流れ落ちた。
 
 一か月後、睦夫は一人でヤマユリを訪れた。他に客は見当たらない。

 睦夫は驚いた。
 死んだはずの百合がいるではないか。マスターはいない。
 訝しげに止まり木に腰を下ろした。
 すると睦夫はその止まり木から床へ転がり落ちた。壊れかかっていた止まり木らしい。完全に壊れてしまった。
 睦夫は床から立ち上り、カウンターの中に立っている百合らしき女性をみつめた。
 頭を掻きながら、
「壊してしまった」と言った。
「大丈夫ですか」とその女性が言うではないか。
 まさに百合にそっくりだ。
 しかし、亡くなった百合ではない。直感で判るのだ。百合でないとしたら誰なのだ。
「マスターは?」
「用があり近くに出かけています。すぐ戻ると思います」
 百合が死んだといったマスターの言葉は噓だったのか。
 睦夫は、気を落ち着かせるために頼んだビールを続けさまに飲み続けた。
 一本がすぐ空いた。
 一時間ほどして、マスターが戻ってきた。
「すみれちゃん、ありがとう」
(え?菫?百合じゃない)
 睦夫は暫く動悸が止まらなかった。そして、
「マスター・・菫?」と声を発した。
「隅田さん、はては菫を百合と見間違えたようだね。隅田さんの顔を見れば判るよ」と言うではないか。
「百合と菫は双子でね。性格は全然違うけどね」とマスターは笑った。
 睦夫は百合に会えたような気がした。
 睦夫が帰り際、マスターが、言った。
「隅田さん、止まり木は後で直しておくから、心配しないで。しょっちゅう壊れているから、今度、業者を呼ばなきゃね」
と言って、見送ってくれた。

・・・・・・・

 十年後、隅田睦夫は、東京の本社に戻った。

 山登りの好きな睦夫は、時々東京近郊の低山を登っていた。

 ある日朝早くに家を出て、電車を乗り継ぎ、山麓の駅に着いた。
 午前八時頃だった。

 これから登っても頂上には午後の二時ごろには着くだろうと計算した。
 帰りが多少遅くなっても次の日は日曜日だと高を括っていた。
 今回は一人である。
 いつもは仕事の仲間や昔からの友と一緒なのだが、昨夜、天気予報を確認して急に決めた。
 妻は、「また山に行くの」と不服そうな態度だった。

 過去に一度、登ったことのある山だ。
 麓のコンビニエンスストアで、水と食料を仕入れ、リュックサックに詰めて、十五分ほど休憩した。
「よし」と声を発して登りだした。

 この日は朝から抜けるような青空であった。
 五十二歳になる睦夫は、体力にはまだ自信があると勝手に思う。とはいっても若い時とは違い、いくらか落ちてきている。
 人間は年齢を重ねるにつれ、着実に老いに向かっている。

 九月初めの暑さは侮れない。
 登り始めて暫くすると、花の香りがしてきた。
 そのほうに顔を向けると、山百合が咲いていた。
 睦夫はその傍で暫し休憩を取った。そして気合を入れてまた登り始めた。

 昼過ぎには標高千メートルの頂上に辿り着いた。
 抜けるような青空の下には、遠く霞む街並みが望まれる。

 その時、若い時分の北陸の小さな町のスナックの百合と一緒に登ってきたような想いに駆られた。
 下山したらまた現実の生活に戻る。
 
 そう考えていた時、一陣の風に乗り山百合の高貴な香りが、下方から空に向かって駆け抜けていった。

 それと同時に、炎の中の仁王立ちした老婆と、車に乗せたあの女性の亡魂が、何かを叫びながら睦夫の前を駆け抜けた。

 年齢とともに霊感の薄れた睦夫には、その現象を感じることも、聞こえることもなかった。
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