こうもんまで

「起立、礼、さよおなら」
 齢10に満たない少年少女の意気衝天な挨拶が放課の合図だ。最初に教室を出たのは数人の男子生徒であった。おそらくこのあと遊ぶ約束をしているのであろう。それはさながら、スターティングゲートが空いた瞬間の競走馬のような勢いであった。それに続くようにしてぞろぞろと教室から出てくる生徒たち。次いで出てきたのはボールを持った集団。校庭で遊んでから帰る組である。続いて習い事ある組、特に予定のない組、少し遅れて他のクラスの終わりを待つ組、教室でだべる組という格好である。
 しかし、他とは明らかに異彩を放つ少年が一人。いや、正しく言えば校門を出るまでは他と同じ一般の生徒であった。しかし校門から数百メートル離れたところで少年の様子が変化した。具体的には歩行形態が変化した。やや内股で脇を締め、小さな歩幅で早歩き。どうやらこの少年は明らかに明白に疑いの余地なく「うんこの限界」である。ここまでの文章の雰囲気に合わせるならば「うんこ」という言葉は使わない方が正しいだろう。しかしこの少年の緊迫した表情そして、筆者の経験からうんこのピンチはうんこでしか伝わらないと判断したうえであえてうんこという表現を用いている。決して考えなしにうんこと使うほどうんこを軽視してるわけではなく、うんこに対する最大限の敬意を込めていることをご理解いただきたい。
 さてこの状況一般の生徒であれば学校に戻るか家に帰るか迷うところである。しかしこの少年、振り返ることなく家に続く道をただひたすらにまっすぐに進んだ。この少年は知っていたのだ。迷いが命取りであることを。少年にとってこれは日常であった。便意を催す位置、そこから家までの時間その全てを把握していた。これまでの日々の積み重ね、経験、その結晶がこのうんこのピンチ脱出法に集約されているのだ。
 しかし、この少年もやはり小学生であった。小学生では頻繁に起こり得ること、社会人だって犯してしまうこと。そう、それは失態(ミス)。そんな失態をここで犯かしていることに気がつく。忘れ物である。ここで少年の意識が学校のロッカーに掛かっている体操着に向いてしまったのは責められない。そしてその気の緩みは肛門の緩みを引き起こす。少年の悲願は夢半ばで潰えた。家まで五十メートルのところであった。少年の目に涙はなかった。夏らしい爽やかな風が吹いた、ウンコの匂いを乗せて。
 これは校門を出てから肛門から出るまでの物語。

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