【エッセイ】政治的左右盲

 幼い頃、僕は右と左の判断が他人よりも一瞬遅かった。今でも、友人を隣に乗せて車を運転している時に、突然「次を左ね」とか、「ここを右」とか言われると、瞬時に反応できない。別に、左右の判断が遅いのは確かだが、左右が分からないわけではない。時間をかければ(本当に取るに足らないほどの時間をかけさえすれば)、正しく左右を判断できる。
 このことに「左右盲」という名前があることを知ったのは、つい最近のことだ。左利きの人や、幼少期に利き手を矯正された人がそうなりやすいらしいが、はっきりとした原因は定かではないようだ。
 大人になるにつれ、瞬時に右か左かを判断することの難しさは、物理的な位置関係においてよりも、政治的な空間におけるそれのほうが顕著になってきたように感じる。政治の話しはあまり得意ではないし、よく分からないのだが、その「よく分からなさ」を自分なりに書いてみることにする。
 さあ、ここで考えてみてくれ。政治において、君は右派だろうか?それとも、左派だろうか? 僕は正直なところ明確に答えられない。というのも、右翼と左翼の違いがいまいちよく分かっていないのだ。
 一般的な説明では、左派は急進派、右派は保守派だ。歴史に詳しい人に説明をお願いすると、フランス革命期、王政の是非を問う議会にて、議長席から見て左側の席に急進派が座り、保守派が右側の席を陣取ったことに由来するということまで教えてくれる。ここまでは、理解しているつもりだ。現在の日本で言えば、自民党はどちらかと言えば右派だし、共産党は左派だろうと、なんとなく理解はしている。また、ある人に言わせれば、右翼・左翼は、他方との関係によって規定されるとか、その時の社会的状況を基準にして相対的に規定される両極、とか、色んな説明をしてくれる。
 しかし、憲法を改正したい自民党が何故「保守」と呼ばれ、憲法について現状維持を志向する共産党が何故「左派」になるのかが分からない。
 社会主義や共産主義の否定と民主主義・資本主義の肯定の自明視が決定的なこの国で、「共産」党が存在するのはなぜか。左派の政治運動を特徴づけてきたかつてのカウンターカルチャーはすっかり鳴りを潜めた。一方で、ジョセフ・ヒースらによれば、近年、右派のカウンターカルチャーの台頭が見られるという。今や、カウンターカルチャーへの傾倒が必然的に左派への支持を表象する時代ではない。
 選択的夫婦別姓には賛成だが、同性婚には反対の君。9条の改正には賛成だが反体制を自認する君。民主主義は大いに歓迎するが、資本主義に一方ならぬ疑念を抱く君。
 君達にもう一度聞こう。君は、右派か?それとも左派か?
 近年の日本では、特に政治的マトリクスの中に、自らの政治的立場をマッピングすることが難しくなっているという実感を持つ。これを俺は「政治的左右盲」と勝手に名付けているのだが、最初に述べた左右盲に比べれば原因の特定比較的容易かもしれない。
 野党の分裂と新生党の乱立が原因と言う人もいるかもしれないが、僕はそれよりも右派と左派という対立軸が、数々の政策に対する是非のシリーズになっていることが原因だと思う。
 先程の、選択的夫婦別姓には賛成だが同性婚には反対するという君に登場してもらおう。彼(彼女でもいいが)が、そのような政治的な意志表示をしたとき、彼はどの政党を支持するべきだろうか。あるいは、この右派・左派という狭隘な政治的マトリクスの上で、彼はどのような事態に遭遇するだろうか。
 もし彼が夫婦別姓に賛成する野党を支持すれば、同性婚に反対する与党の政策(こちらも彼の本意ではあるわけだ)へのカウンターとみなされる。逆に同性婚に反対する与党に票を投じれば、野党の支持する夫婦別姓に対して政治的意思表示ができない、あるいは不本意な意思表示をしてしまうことになるとしよう。彼は迷った末、与党に票を投じた。ここで、与党支持者であるある友人がこう言ってきたとしよう。「お前は与党支持者として不完全だ」と。
 実際、巷の政治談議ではこういうことがよくあるような気がする。「政策Aを支持するなら、お前は○○党の支持者であるから、当然彼らの唱える政策Bも支持するはずだ」と。しかし、政策Aを支持することから、それなら政策Bも支持するべきという規範を導き出すまでの間に、一体どれほどの論理的な必然性があるのだろうか?政策Aを支持するなら政策Bを支持すべきというとき、この規範を矛盾なきにものしているのは、単に両政策を同じ政党が打ち出したから、というかなり怪しげな理由だけなのではないだろうか?
 こうした言説は、例えば上に挙げた彼のような与党支持者を、右派・左派という政治的マトリクスから排除してしまう。否、厳密にいえば、現存の右派・左派という政治的マトリクスでは、彼のような人間を政治的領域に組み入れていけないのだ。
 僕のような人は、現行の政治的マトリクスに自分を位置づけることができず、また仮にそうしようとしても、場合によってはそこから疎外される可能性を常に感じ取っているが故、自分の政治的自己像を描けなくなっている。そんな人たちは、いくら投票キャンペーンを訴えかけられたとしても、仮にそれで投票に行ったとしても、その選挙にリアリティを見出せなくなっている。こうして、政治的無関心だけでなく、政治的アパシーをも生んでいくのではないか。
 ある政策への賛否によって、別の政策への賛否がシリーズのように決められてしまう。そこでは、投票者の厳密な政治的意思表示は不可能になる。だからといって、ノンポリを気取るのも違う。選挙が市民に与えられた政治的意思表示の機会であるなどという幻想を看破し、それでも敢えてその幻想を受け入れた上での戦略的行為として、選挙を考えていく必要があるようにも思う。

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