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【連載小説】『晴子』8

 夕飯が済ませると、スピーカーの音楽を切って、食器を洗った。大体家のことはスムーズに済ませてしまう。特にやることがないなら、いずれやらなければいけないことを先に先にとやってしまいたいのだ。こういうところが、菖蒲ちゃんから「かっこいい」と言われるのかもしれない。いずれにしても、自分の「かっこいい」を自分が把握しいている必要はないのかもしれない。人生において、自分が「かっこいい」ことを、自分で示さなければいけない機会は、おそらくほとんどやってこないだろうから。
 洗い物が終わると、風呂に入る準備をする。風呂に湯を張る。まだ、風呂が出来上がるまでは時間があるが、服を脱いで下着姿になる。しばらくその恰好で、携帯でメールのチェックし、軽く話題のニュースもさらったが、特に興味を惹くものはなかった。
 風呂にお湯が十分に溜まると、下着をとって浴室に入った。肌に湿り気が直接触れる感触が、冬よりも鈍い。——夏こそお風呂で汗をかくべきです。と菖蒲ちゃんが言っていたのを思い出した。
「エアコンにさらされて汗をかかないと、代謝が悪くなるんです。お風呂でちゃんと質のいい汗をかかないとダメなんですよ。」
 店の昼休憩の時、久しぶりに一緒に昼食をとった喫茶店で、彼女が力説していたのを、湯に浸かりながら思い出す。風呂で汗を流すことは嫌いではないが、いつまで浸かればその「質のいい汗」が出てくるのか分からなくて、あの時あの会話を適当にあしらったことを少し後悔した。
 とにかく「質のいい汗」をかくことは諦めて、身体を洗い、シャンプーとトリートメントをし、洗顔など諸々をこなし、風呂から上がることにする。脱衣所から出ると、リビングから漏れるエアコンの冷気が、服と肌の間に潜り込んでくるのを感じた。
 リビングで髪を乾かせて、冷蔵庫のミネラルウォーターを一口飲み込むと、次にジンとベルモットを取り出しマティーニを作ろうと思った。自宅で作るものだから、オリーブを沈めるような本格的なものはできないが(グラスも冷やしていないし)、それでも自分の気分に合わせて配合比を自在に変えられるのは、そこらの店ではできない芸当だ。
 マティーニが出来上がると、リビングのスピーカーからまた音楽を流す。何となくまた、Rod Stewartを選んだ。さっきのカバーアルバムとは別のオリジナルアルバムだ。オリーブの足りないマティーニを飲みながら、私はまたSNSなどをチェックする。特にやることもないので、明日に備えてもう寝てしまってもいい。私は何となく、あの電話を待っていなければいけないような気になっていた。時刻は夜10時前。もうそろそろだ。
 それから約5分後、いつものあの電話がかかってきた。

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