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Y中学校の思い出 その1

 地方の町立中学校Y中。赴任当初は144名だった全校生徒数は次第に減少し、いまや86名。当面は増加の見通しもなく、2023年度をもって閉校となりました。私は国語科非常勤講師として勤続13年間(非常勤だから)、我が家の小学校5年生だった上の子は社会人、小学校1年生だった下の子は大学生。40代から50代半ばにさしかかり、女性の人生の繁忙期ともいえる時期を、私の経歴上唯一のいわゆる「落ち着いた学校」と呼ばれた、この学校を職場として過ごすことができたのは、心から幸運だったと言えるでしょう。今後は小中一貫校として新しい学校に生まれ変わる…というタイミングで、私は転勤することに。
 在りし日のY中に感謝を込めて、思い出を綴ってみようと思います。
 なお、思いつくままに書き散らすことになると思いますので、時系列はおろかテーマも散らかったものになりますが、「本当に実在した学校なのか?」と不思議な気分のままで結構です。ぜひお付き合いください。


来年度はY中学校でお願いします。


教諭として8年働いたあと退職。出産育児で7年ほど専業主婦として過ごし、上の子が小学1年生、下の子が3歳になった頃だった。丸一日滑り台や砂場で過ごすことに罪悪感、貯金通帳の数字に不安を感じ始めて復帰。3年3か月の間、前任校K中で病休代理の常勤→非常勤で勤め、3学年の授業を一通り任されて「死ね」「ババア」などという罵声にも慣れ、教員生活の勘を取り戻した頃、転勤となった。教諭時代から少々「荒れた学校」に縁がある私は、今回もある程度の覚悟を持って教育事務所の面接に臨んだのだが、意外にも担当の先生から「今度は落ち着いた学校に行っていただきます。」と明るい声を掛けられた。「Y中学校でお願いします。」
 夢かもしれない…。ポーっとしながら帰ってきてテレビをつけたとき、目に飛び込んできたのはあの津波の映像。2011年3月11日東日本大震災のその日だった。

ようこそ Y中学校へ

 赴任を前に3月末日、町役場での面接の後、20代男性S先生の車に同乗して初めてY中へ。「山の上にあるらしい」とか「難攻不落の城」とか噂には聞いていたが、それは事実だった。まだ?まだ登る?…一人で来なくてよかった。もし一人で初めてだったら、まずこの道が正解かどうかわからない。安全運転のS先生の車はゆっくり5分ほどかけてくねくねと山道を登り、校舎の下の駐車場についた。車を降りて緩やかな坂を登った先に校舎がある。途中すれ違う部活中の生徒が「こんにちは!」とはにかんだ笑顔で気持ちの良い挨拶をしてくれる。生徒たち皆が、だ。
 前任校で一緒だった20代女性M先生が「この学校はユートピアですよ~。思いついたことは何でもできます!」と言ってニコニコしている。生徒指導の大柄強面A先生も照れたような笑顔を浮かべて「勉強は得意じゃないが、いい子ばっかりです。」と頷いた。50代女性N校長も、ふくよかな表情にたっぷり笑みをたたえて「出勤は週4日でしょう。休業は何曜日でも希望をおっしゃってね。」と声を掛けてくださった。

N校長

 そのN校長には本当に感謝している。「置かれたところで咲きなさい」のシスター渡辺和子氏の言葉を借りて言うならば、彼女は私をY中に置いてくれた人だ。今となっては、私の仕事を高く評価し、私が持てる力の200%を発揮すべく上手に働きかけてくれた、デキる管理職でいらっしゃった。心から尊敬している。しかしながら、実は彼女が怖かった。
 その数日後の3月31日、転勤前夜にK中の同僚の先生方が飲み会を開いてくれたのだが、そこで聞いた話が怖すぎた。N校長は、それはそれは厳しい人だという。なにかやらかしたら、ものすごく叱られるらしい…。今で言うならパワハラか。ビビる私の様子を見て、英語科のK先生が「取って食われるわけじゃないから大丈夫!」と楽しそうにじゃんじゃんビールを注いでくる。恐怖を酔いでごまかすつもりが、帰宅して風呂で溺れかけ、夫に救出されるほどの泥酔に至った。
 翌朝の初出勤は二日酔いのなれの果て。ヨレヨレの状態で車を運転し、到着して降車の際、スーツの腰部分のベルトにハンガーが引っかかっていることに自分で気が付いたのは幸いだった。職員会議のとき飴をくれたK先生、サンキュー。必至に健全に振る舞い、事なきを得た。
 職場にいる時間が短いので、上の子を習い事に連れて行ったり下の子を保育園に迎えに行ったりする合間、夫や子どもたちが寝た後にも必死で授業の準備や教材研究をした。校長はそんな私に時折声を掛け、授業を覗いてくれてこちらの努力も認めてくれたのか、私が叱られることは一度もなかった。
 そんなことより私が驚かされたのは、管理職にしてはちょっと珍しい指導や行動だった。ある日漢字ノートに○付けチェックをしていると、Aさんのノートの片隅に「死ね」と書いてあった。無視しようかと思ったら数学のN先生が「本人に『どうしたの?』って聞いてやって。」と言うので、その通りにしてみると、わぁーっと大声で泣き始めたので、そのまま担任へバトンタッチ。スポーツ系の習い事でパンクしそうになって吐き出したかっただけで、私に罵声を浴びせたわけではないと担任や本人から丁寧に謝罪があった。
 その毎日1ページ提出の漢字ノート。いつもは丁寧な字を書くBさんの文字が、ある日突然乱れていた。「あれ~?どうしたんだろう。」と声を上げた私に、向かいの席のS先生が、ちょっと見せてください、と身を乗り出した。「あっ、本当ですね。おかしいな。何かあったんですかね。校長先生に見てもらいましょう!」と言う。えっ!校長に見せるの?漢字ノートを?…校長室で「うーん。こりゃ、なんかあったな。休み時間にBさん呼んで。」
かくしてBさんは校長室で文字が乱れた理由を話し、一件落着。もう二度と彼女の乱筆を見ることはなかった。
 生徒指導的な事案もN校長に掛かればあっという間に解決。教室で携帯が鳴ったときは親を校長室に呼び、「学校に持ってきてはいけません」というルールだからときっちり話をして親子共に納得させ、そのままそろってお帰りいただくというコース。以後、その子も他の子も持ってくることはなかった。この件以外にも、世間でよくある保護者のクレーム対応も即校長に繋がれる。怒り心頭でやってきた親が、N校長と明るく談笑しながら校長室から出てくる姿を幾度となく目撃した。生徒とも親とも、同僚とも、これほど話がきちんとできる校長はなかなかいないと思う。
 まあ、学校は校長の力量で変わるというのは動かしがたい事実かもしれない。しかも、あんなに管理職を楽しんでいる人を見たことはない。転勤してからも時折来校される姿が、私の目にはまぶしく映る。
 おかげさまで、その後13年間というもの、自主的に他の先生の授業を見せてもらったり、図書館に通ったり、勉強し続けるモチベーションを保つことができたし、前向きに努力する姿勢は、これからも変わらず持ち続けていけるような気がする。


ユートピアの生徒たち

 着任式・始業式から体育館に整列し、全員微動だにしない姿。生徒会長が張りのある声で、こちらから視線を外すことなく東日本大震災の話題も盛り込んだ、長く重みのある挨拶をしてくれた。その様子に圧倒された。
 教卓の前に立てば、笑顔の生徒たちがわらわらと寄って来る。しかも、ちゃんと敬語で「先生、今日は何をするんですか~?」「昨日『坂の上の雲』を見ましたか~?」などと、親しみやすさの中にもやんわりと上品な様子で話しかけてくる。重い荷物を持って廊下を歩こうものなら「先生!持ちましょうか?」と左右から声を掛けられる。電気工事の作業員のおじさんにまでそんな声を掛け、相手を驚かせる様子を見ることもあった。
 提出物はほぼ全員毎日出す。授業態度も申し分ない。立ってウロウロしている生徒は一人もいないし、じっと顔を上げ、ちゃんと目線を合わせて話を聞いてくれる。反応も良い。下手な授業をしては申し訳ないくらいだ。授業中寝ている生徒がいればつついて起こしてくれたり、「先生、○○君の成績は1にしてください。」と、真面目に言いに来る生徒もいて驚かされる。よその学校では、授業妨害さえしなければ相場は2だ。○○君に「どうしたの?」と声を掛けると「新聞配達で疲れて寝てしまいました。気を付けます。すみませんでした。」と、彼は申し訳なさそうに言った。

ユートピアの終焉

 13年の間に生徒の質も随分変わった。ここ数年、理由は様々だが、授業態度を注意したり、評定1をつけたりすることもあった。今年度、主に担当した学年はY中らしさを感じる瞬間がほとんどなかった。ついに授業妨害にも合い、昔取った杵柄で大声で叱れば静かになるけれど授業の雰囲気を壊したくないし自分も疲れるので、職員室から援軍を呼ぶことを覚えた。教員の団結力、チーム感を醸し出し、無駄な抵抗はやめろとアピールするのだ。全国の疲弊して潰れそうな先生方にも、この方法を勧めたい。
 しんどいなぁ…と言ってるうちに秋になり冬になり、来年度開校の小中一貫校への打診に難色を示したために、ついに13年目の異動が決まった。
 最後の年の卒業式は3月12日。毎年この日は心が洗われる。今年もやはりこの日だけは「本当にいい学校に勤めることができて幸せだ」と心の底から思うことができた。在校生も閉校を控え、今年度の修了式は3日後の15日だった。

Y中名物 脅威の坂道

 Y中の通学は主にスクールバスか自転車の2択。スクールバスは校舎近くの駐車場まで上がってくれるのだが、自転車通の生徒は専用の長く厳しい坂を自分の足で登らなければならない。昔、隣の中学校出身だったという友達がバスケ部の練習試合で本校を訪れた際、自転車置き場からこの坂を登り、体力を使い果たしてY中に惨敗したという話を聞いた。彼女は「あれはY中の策略だ」と言っていた。私は何度か「先生!自転車に宿題を忘れてきました。」という生徒の報告を聞いたが、「あら、大変ね。」などと軽くあしらっていた。しかし16日の閉校式にあたり、400字詰め原稿用紙に綴られた生徒会長の言葉を添削してほしいとの依頼を受けて赤ペンを走らせながら、「あの坂」というくだりを目にした私は、「ここはちょっと盛った方が面白くなる」と確信し、多少大げさな表現を書き入れた。どんな坂だか自分は行ったこともないのに想像を膨らませるうちに、ちょっと行ってみたい気分になり、50代女性非常勤講師家庭科O先生を誘ってみた。
 O先生もY中4年目にして初めてだという。ちょうどうまい具合に通りかかった卒業生に案内を頼み、3人でコンクリートの階段を降り始めた。22段×4か所降りたところで階段は舗装された、2~3メートル幅のただの坂道に姿を変え、左右に曲がりながらきつい傾斜は続く。各所20~30度くらいある。卒業生のAさんは「私、ここで何度も転んでケガしたんですよ。」という。毎日校長先生が掃除してくれたという路面。落葉や雪なんかで滑ってバランスを崩したら一気に下まで転がり落ちてしまいそうだ。O先生は道の両脇の溝を指さし、「ここで冬のオリンピック競技のリュージュができる!」と叫んだ。すごい勢いで「シューッ!」っとカーブを描きながら加速できそう。途中のベンチで休んで下に到着すると、Aさんは待っていたお母さんの車に乗って帰っていった。私たちは職場のこれからのことやらY中の思い出なんかを語り合い、大笑いしながら来た道を登った。坂道最後の階段エリアに来たとき、O先生が「ここを階段にしてあるのは、ここだけは角度がきつ過ぎて、険しい難所になってしまうからじゃない?」と言うので、学生服やセーラー服のまま重い鞄を背負い、鎖につかまって難所を乗り越えんとする修験者のごとく岩をよじ登る生徒の姿を想像して、噴き出した。
 途中休憩もしながら往復小一時間もかかった。この脅威の坂道を毎日通った生徒たちは偉い。筋力も精神力も付くだろう。改めて感心した。
 



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