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水玉消防団ヒストリー第9回 1980年 ジークフリードはジッパーさげて


取材・文◎吉岡洋美
協力◎地引雄一

いつも、何かがそこで起きている

 
 バンド結成から約1年数ヶ月の1980年、新たな年代の幕開けとともにライブハウスデビューした水玉消防団。
 東京のパンク、ニューウェイヴシーンの勃興期、この初ライブハウスで、音楽センス、個性、存在感ともに共感できるフィーメイル・パンク・バンドたちと出会い、「そもそもバンドはミーハーで始めた」(カムラ)彼女たちが、「他のバンドと何が違うかというと、その目的のなさ」(天鼓)というパワーのまま、結果的にJORAを超えて東京パンクシーンの扉を開けることになった。共演した女性パンクバンドたちとは、ライブ企画を重ねる度にネットワークも広がってくる。
カムラ「個人的にもライブ情報をゼルダのチホちゃんたちとシェアするようになって、当時、とにかく東京ではパンク、ニューウェイヴのシーンがヴィヴィッドに日々動いていた時期。“ライブ”というより“出来事”として、いつも何かがそこで起きている。自分も見に行かずにはいられないようになっていた」
天鼓「ネットがない時代だけに、やっぱりクチコミがあれば見に行くしかないじゃない? 今のように映像があるわけでもないし。だから、皆、無理矢理でもどこか行ってみようとなる。行かなければ見ることができないし、見ること自体がとても貴重で、一回ずつがすごく大切な体験になっていたんだと思う。と言っても、私は自分が出演するライブでいろんなバンドに出会ったという感じで、わざわざ見に行くっていうのはあまりなかったかな。気がついたら、自分がすっぽりその渦中にいたわけだしね」

 その「渦中にいた」という、水玉消防団が合流することになった80年当時の東京のパンク、ニューウェイヴシーンは、ミラーズのヒゴヒロシによる78年の「ゴジラ・レコード」を皮切りにインディーレーベルが立ち上がり、「CHANGE2000」の他、「WATCH OUT」「NEW DISK REPORT」「Signal-Z」など現場から数々のミニコミ誌も生まれていた。

〔1、2枚目〕パンク+ニューウェイブミニコミ誌 「CHANGE2000」VOL.9(1980年夏頃)では、編集長のゼルダ、小嶋さちほ(チホ)による水玉消防団インタビューが掲載された。〔3枚目〕デザイナーで後にフリクションのメンバーにもなるシュルツ・ハルナと地引雄一で80年に創刊された「シグナルZ」(左)。81年8月号(右)の2号のみの刊行となった。〔4枚目〕「シグナルZ」2号目では天鼓とカムラのインタビューが掲載された。[資料提供:地引雄一]

 自分たちから始まる音楽カルチャーを自分たちで作る——既成の音楽業界からではなく、自分たちの場は自分たちの手で作り、表現する。新宿ロフト、渋谷屋根裏、吉祥寺マイナー、ナイロン100%、原宿クロコダイル、渋谷ラ・ママ……パンク、ニューウェイヴのバンドが出演するライブハウスには演る側も観る側もそんな熱気が充満していたという。
カムラ「当時はライブのことをギグ(GIG)って皆、言ってたけど、ライブする側もお客さんも、そこに集まった人たちで一緒に作り上げるという意識があって、ライブというよりスリリングな集会、ある意味、ミサ、祝祭に近いような感じさえする。どのパンクバンドのギグもめちゃくちゃエキサイティングで、本当に毎回何が起こるか分からない。ヤバイ空間だったよね」
 その「ヤバイ空間」のステージに立つバンドとは、例えば、70年代に渡米し、NYパンクの真っ只中にいたレックとチコ・ヒゲが帰国後結成したフリクション、シーンでカリスマ性を放ったボーカルのモモヨとワカのパンクベースで“リザード・アーミー”と呼ばれる信奉者も出現したリザード、前述の日本初のインディロックレーベルを立ち上げたヒゴヒロシのチャンス・オペレーション、S-KENのマネジャーで「DRIVE TO 80’s」を企画した清水寛率いるコンクリーツ、関西の町田町蔵のINU……カムラが覚えている限りでも、こうしたバンド群に加え、先述したボーイズ・ボーイズ、ゼルダ、ノンバンドらフィーメイル・パンク・バンドたちが毎晩のようにどこかでギグを行い、地下祝祭をあげていた。
 水玉消防団のメンバーのなかで随一、イチ音楽ファンとしてもギグに通うようになったカムラに、80年当時のバンドについて話してもらおう。
カムラ「フリクションはあの時代の東京に住んでいる私たちの苛立ち、怒り、尖り方をコアなビートで表してくれて、“ああ、これこそが自分たちの焦燥感の音だ”と思った。輸入文化じゃなくて日本人でこんなかっこいいバンドが出てきたことに驚きもした。リザードについては正統派ロックバンドだと私は思ってて、ポップなロックの音楽スタイルを持っていたけれど、実際のライブは強靭だった。文学青年のモモヨの歌詞も凄くて、 “マーケットリサーチにコントロールされてモノばかり買わされている”って内容の、まるで今のAmazonのことをテーマにしたような先見的な歌をこの頃から歌っていた」

●Friction「せなかのコード」

●LIZARD「宣戦布告」


カムラ
「チャンス・オペレーションはヒゴさんのベースを元にしたリズムの積み重ね、組み合わせ、変化がとにかくトリッキー。変拍子を使ってるわけじゃないのに複雑かつ、ファンク的でダンサブル。それに加えて、自分が置かれている今の矛盾や状況を1センテンスで言い当てて、今なら“空間現代”あたりにも繋がるようなリズムにハメる歌詞の心地よさがあった。コンクリーツはこれまた他のバンドと全然違ってて、ダンディな清水さんがスーツ姿でドドンパを歌ったりして軽くてポップでユーモアがある。それでいてパンクシーンの中でしっくりと存在している。当時の東京のシーンの混沌としたキャパシティの深さを代表するバンドだったよね。INUは関西のバンドだからライブよりアルバムをよく聴いて大好きだったけれど、町蔵の歌詞は天才の仕事。一目も二目も置いていた」

●Chance Operation「Chance Operation」

●コンクリーツ LIVE@新宿ロフト

●INU「メシ喰うな!」


 言いたいことがあるなら、自分のやり方でやればいい


 人と同じであることを拒否し、自分を貫くことは誰もが共通している。そんなバンドばかり故、「皆、独自の音楽スタイルを持っていた」と、天鼓もカムラも口を揃える。
天鼓「今のミュージシャンの人たちを見てると、何でも出来るし、すごく器用だなあと思う。いくつもバンドを掛け持ちでやっていたりするし。あの当時は、不器用が集まって自分ができることだけで曲を成立させていたわけだから、(パンク、ニューウェイブの)共通した音楽的スタイルなんて実はなかったと思う。1バンド1バンド、皆ことごとく違っていたし。だから、私たちも含めて、よそのバンドに入って演奏するなんて簡単にできるわけがなかった」
カムラ「そう、応用は効かない(笑)。だからこそ、あの頃のパンクバンドは皆、音のスタイルが違う。それは心から強調したいところで、オリジナルってそういうことなの。音楽のパターンなんてない。パンクと言えば3コードで髪の毛立てて革ジャン着て、安全靴履いて、という、そんな類型化した感じで音楽をやってるバンドはほとんどいなかった。それより精神=スピリットという一番コアな部分に共鳴してパンクへの動きが始まったんだと思う。もし、定義があるとすれば『言いたいことがあったら、自分の言いたいやり方でやればいい』。そういう表現の“個”。そこだけだったと思う」
 既成のものを疑い、自分たちのやり方で音楽を表現する彼ら、彼女らのクリエイティビティは、「ただ音楽を楽しむ」という類のものではなかったし、客側もそれに呼応していたと、カムラは強く言う。
カムラ「エンタテインメントをやってるわけじゃないのよ。お客さんだってそりゃ、もちろんチャージを払うわけだけど、ただお金を払ってエンタメを見に来ました、ってわけじゃない。皆、社会に対する何らかの怒りを内包、体現している。そういう意味では、やはり政治的。そして、その送り手が本物の人たちばかり。だから、受け手は彼らのステージに自分を代弁してもらっているようにコネクトできて、“見る”というより自分たちもリスクをもってギグに“参加”しに来てる感覚。毎回、予測不能な相互作用が起きて、だから、色々な騒ぎも起きるんですよ。客も規格外のバンドを見て自分の中の解放された何かを表現したくなる。“パフォーマンス”がキーワードになった時代でもあったし、お客さんも何か自己表現していいという暗黙の許可もあった。興奮してバンドと揉めたり、ステージに上がったり、引き付けを起こしたように倒れながら踊ったり。バンドもステージからそんなヤバイ客を見てる。ステージとフロアーの境界があいまいになって、“集合的実験場”とでもいうようなことが毎晩、起きていた」
天鼓「80年代は日本も高度成長からより豊かになっていった時代。余裕ができ始めたこともあったかもしれない。ニューウェイヴというムーブメントって、枠なんかぶち壊して私が私らしくしていいじゃない、という自由を求めた運動のようなもの。“ただ上手い、なんてつまらない”というところにきていた。専門家が作る高度なテクニックのものだけが文化じゃないだろうって。私、コロナが明けつつあるこの2023年現在に、また再び、アートや音楽の中にそういう風を感じているんですよ。人が人であることを取り戻したいと希求するエネルギーみたいなものを」

 
「ジークフリードはジッパーさげて」


 さて、80年のライブハウスデビューから、水玉消防団はこうしたパンク、ニューウェイブシーンでのライブが格段と多くなっていく。カムラ言うところの“言いたいことがあったら、自分の言いたいやり方でやればいい” は、シーンの外からスタートしながら、図らずしも水玉消防団の方法そのものでもある。
 ところが面白いのは、こうしたコアなシーンの入り口に立ちながら、実は彼女たちメンバーの大半は、依然としてカムラを除き「特にロックファンでもなく、当時のニューウェイブやパンクバンドにそこまで影響されてないし、他のミュージシャンと付き合いもない。見るためにライブに行ったりもしてなかった」(天鼓)ところだ。スタンスはあくまでも彼女たちのまま。しかし、そのままの存在感でシーンのなかに食い込んでいく。

 ライブの場も増え出していくと、当然JORAでの練習も増すようになる。既に天鼓がギター+ボーカル、カムラがベース+ボーカルとして、2人フロントに立つ体制も水玉消防団では定着し、オリジナル曲を模索することが基本になっていた。
天鼓「確かに、80年から色々なところでライブするようになった。そうすると、ある程度曲としての完成度がないとマズいと思ったんじゃないかな。私たち、すごく練習しているんですよ。毎日毎日。皆、下手ってのもあったけど、頭の中で完成形を作ることができないから、試行錯誤で音出ししながら組み立てて作っていくしかない」
カムラ「曲の作り方も誰かがどうこうってわけじゃなくて、皆でゴソゴソ即興みたいなことを順次勝手にやって、それを録音してたのね。そのなかで面白いフレーズが出たらそれをもとに曲を作るという、私たちなりに音楽的発展をしていた。録音を聴いて、『このキーボードのフレーズをリピートしていこうよ』となったら、それにドラム入れて、ベース入れて、って即興のアイデアから曲を作っていくのが私たちのやり方になっていった。というか、そういうやり方しかできないかから、結局ロックのセオリーにはない曲しか作れない(笑)。しかも、録音を聴いて『ここ面白いんじゃない?』となっても、音楽のことが分からないから再現できなくて、理詰めでやったら全然できない。だから、1曲出来上がるのに時間がかかる」
天鼓「ある程度なんとなく曲のようなものが出来てきたら、私かカムラが歌詞を作って、ハマれば曲になるし、上手くいかないときもあるし、それも全部試しながら作っていくって感じでしたよね。頼れる技術がないからと言って、面白いものが作れないわけじゃない。当初から相当色々細かく考えながら曲を作っていた。同じようなリフレインが何回も出るんじゃつまらないから、1回だけこれを入れよう、とか、ここで転換しよう、とか。今どきの曲は、1曲がすごく複雑に出来てますよね。多分、コンピュータの出現と関係しているんだろうけど、昔はもっとシンプルだったでしょ。それをアナログの極地で創意工夫していくと、結構新しいものが生まれるわけ」
カムラ「やっぱり、人と違う新しい音楽を作らなきゃ、とは思っていたし、本当に練習量は多かった。そうやって皆で少しづつオリジナル曲を固めはじめていったんだよね」
 そして、この頃に作られた初期オリジナル曲のひとつが、後に1stアルバムにも収録される、水玉消防団の代表曲の1つ「ジークフリードはジッパーさげて」である。可夜のミニマルなキーボードで印象的に始まる疾走感あるナンバー。夜の住宅街に現われた露出狂の男を歌った歌詞とボーカルは、カムラによる。

●水玉消防団「ジークフリードはジッパーさげて」

カムラ「あれは、もともとイギー・ポップをモデルにした歌なんですよ。彼のような男の子が東京にいたらどうなるかな、どんなフラストレーションを抱えるんだろうと考えてたら、あるひとつの露出狂の人格が出てきた。『ペニスを振り回して走る』とか禁句もいっぱい出てきて、そんな奇妙な歌が出来上がった」
 実はこの「ジークフリード〜」は、天鼓とカムラのツインボーカルがはっきりと形になったきっかけの歌でもある。カムラのボーカルに覆い被さるようにほぼ全編にわたり「ダディダディダディダ…」と天鼓が歌う構成は、コーラスというより正に2パターン・ボーカルのマッシュアップの様相だ。
カムラ「それまではツインボーカルと言っても、まだどちらかの歌の合間にコーラス的に歌うぐらいだったのが、二人が別のフレーズをフルで歌っても『全然イケる』となった、最初の曲」
天鼓「カムラが歌ってるのに私が横でガンガンかぶさって声を出すから、最初カムラは嫌がってたような気がする(笑)。あ、嫌がってるな、というのは分かったんだけど、『これって面白いな!』と思っちゃったんで譲れない。要するに、隙間から歌がもれ聞こえてくる感じが面白いな、と。これが普通にロックを知っている人たちの曲づくりなら、“ここでギターを入れて雰囲気を作って”とか、“こんなビートや編曲が流行ってるからこうしよう”とかやるんだろうけど、もともと、そういうことが全然出来ない(笑)。それに人がやってることは感心はするけどそれほど興味ない。だって、もう誰かがやってること、やれてることをやっても、つまらないでしょう? 『ここで何をしたら面白いか』は私にとっての基本。それを考えるのが何しろ楽しくて、それはこの頃から今も変わらない」
 
 こうして、カムラ曰く「ツインボーカル、変則的なリズム隊、そしてディスコード」が水玉消防団の定番要素になりはじめたこの頃、天鼓が日本の新幹線の風景を切り取った「真空パック・トラベル」、同様に天鼓の作詞による、さりげない日常が歪んでいくという「Who are you?」等々、パワーあるオリジナル曲が出来上がる。80年7月にはこれらのオリジナル曲とともに、「天鼓が見つけた“この不協和音のコード、イケるね!”と、二人で作った」(カムラ)という、7分に及ぶ“結果的に”ノイズインダストリアル的パフォーマンスもやってのけている。

  自分たちのままでありつつ、音を出すと「瓢箪から駒的」(カムラ)な天衣無縫さと「自分たちが面白いことしか考えていない」(天⿎)という強靭さで、彼女たちはライブを重ねるたび、最初にチホが見つけたようにどんどん「見つかって」いき、コアなパンクシーンのライブにさらに誘われるようになっていく。
  この80年、水玉消防団は「手応えを感じはじめ」(天鼓)、「まるで1年が10年のように」(カムラ)、バンドの成長を見せることになる。次回は、性別を超えて1パンクバンドとして飛躍していく彼女たちを追っていく。

 

〔上〕80年のライブでのカムラと天鼓。〔下〕80年からギターとヴォーカル専任になりフロントに立つようになった天鼓。[撮影:地引雄一]

 

天鼓 1978年より女性のみのパンクロックバンド、水玉消防団で音楽活動を開始、80年代のニューウェイヴシーンで10年間活動を行う。同時に80年代初頭にNYの即興演奏に誘発され、声によるデュオの即興ユニット、ハネムーンズをカムラと結成、活動開始。その後、ソリストとして活動を続けるうち、86年頃よりヴォーカリストではなく「ヴォイス・パフォーマー」と称するようになる。「声を楽器に近づけるのではなく、より肉体に近づけるスタンス。あるいは声と肉体の関係を音楽のクリシェを介さずに見つめる視点。“彼女以前”と“以降”とでは、欧米における即興ヴォイスそのものの質が大きく変質した」(大友良英)。85年のメールス・ジャズ・フェス(ドイツ)以降、世界20カ国以上でのフェスティバルに招聘されている。これまでの主な共演者は、フレッド・フリス、ジョン・ゾーン、森郁恵、大友良英、内橋和久、一楽儀光、巻上公一、高橋悠治など。舞踏の白桃房ほかダンス、演劇グループとの共演も多い。水玉消防団以降のバンドとしては、ドラゴンブルー(with 大友良英、今堀恒雄 他)アヴァンギャリオン(with 内橋和久、吉田達也 他)などがある。15枚のアルバム(LP /CD)が日本・アメリカ・カナダ・スイス・フランス・香港などでリリースされている。演奏活動の他、各地で即興・ヴォイスや彫塑、空間ダイナミックスなどのワークショップを数多く行っている。

◆天鼓ライブ情報

緊急告知!!

●4月29(土)〜30日(日)

GIGA FESTIVAL 2days

12:00open/12:30 start~22:00

@CLUB GOODMAN(秋葉原)

1日券¥3,000/2日券¥5,000(+1drink order)

※2日間にわたる総勢100人によるGIGANOISEフェス。天鼓は両日とも出演。29日は北欧から来日のHEXと共演。30日の出演者は女子のみで、2日間とも出入り自由。

[4月29日(土)] 

「GIGANOISE ノイズ大学プレ day1」

【出演】doravideo / HEX (Denmark) / 中村達也 / 天鼓 / 中尾憲太郎 / T.MIKAWA / エヌ(原田仁+gloptin+嗚咽民) / 伊東篤弘 / 若林美保 / 森田潤 / ラヂオ Ensembles アイーダ / Gil / テクノおじ / K2 / DAVE SKIPPER(UK) / Paris death Hilton / Ami Bique / 安永桃瀬 / Deja (Korea) / 妖精マリチェル / Akio Jeimus(USA) / 荒川淳 / YI SEUNGGYU (Korea) / DJ MEMAI / 村上裕 / 沼田順 / 沖縄電子少女彩 / Spacegrinder / cunts / イチオン / MotomuMiura / 佐々木匡士

[4月30日(日)] 

「CIGAIDOL ノイズ大学プレ day2」

【出演】ni-hao!!!! /天鼓/田中悠美子/沖縄電子少女彩/能勢慶子/若林美保/安永桃瀬/まちだガールズ・クワイア/ラブホテル/小日向由衣/ルカタマ/みゆゆんfrom春日井アイドル/marble≠marble/森田潤+マイモ・リティ(涅槃の犬)/武井麻里子/doravideo/花園DISTANCE/ゲーカーナトゥミ/なんちゃらアイドル/まどんなZ /innes/ダダダムズ/クレイビット/うみと雪乃のハルジオン/妖精マリチェル/HEX/幸せはとね/sommeil sommeil

 

●カムラアツコ 80年代、日本初の女性パンクバンド「水玉消防団」で、ボーカリスト、ベーシストとして音楽活動開始。日本パンクシーンの一翼を担う。同時に天鼓との即興ボーカル・デュオ「ハネムーンズ」にて、ニューヨーク、モントリオール、ヨーロッパで公演、ジョン・ゾーンはじめニューヨーク・インプロバイザー等と共演。その後、英国に渡りポップグループ「フランクチキンズ」でホーキ・カズコとペアを組む。オーストラリアを始め、ニュージーランド、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、ソビエトなどツアー。90年代は、ロンドンで始まったレイブシーンでダンスミュージックの洗礼を受ける。2000年以降、「I am a Kamura」、「Setsubun bean unit」でフォーク、エスニック、ジャズ音楽の領域に挑戦。現在の自身のプロジェクト「Kamura Obscura」では、Melt, Socrates' Garden、Speleologyのアルバムをリリース。エレクトロニクス、サウンドスケープ、即興の渾然一体となったさらに実験的な新作「4AM Diary」を2021年末にリリース。同年秋、イギリスのポストパンクバンドNightingalesの満席完売全国ツアーをサポートする。2019年にはバーミンガムの映画祭Flat Pack Film Festival、2022年10月にはポルトガル・セトバルの映画祭Cinema Charlot, in Setubal, Portugal にて、日本の前衛映画の名作「狂った一頁」の弁士を務めた。

◆カムラ ライブ情報

●5月10(水)

WOMAN MACHINA

19:30open/20:00 start

@IKLECTIK(LONDON)

【出演】Gina Birch(Raincoats)/Anat Ben-David/Kamura Obscura/Digital Roses

※レインコーツのジーナ・バーチとカムラ、英日の80年代フィーメイル・パンクの2人がロンドンで共演!

 ●水玉消防団 70年代末結成された女性5人によるロックバンド。1981年にクラウド・ファンディングでリリースした自主制作盤『乙女の祈りはダッダッダ!』は、発売数ヶ月で2千枚を売り上げ、東京ロッカーズをはじめとするDIYパンクシーンの一翼となリ、都内のライブハウスを中心に反原発や女の祭りなどの各地のフェスティバル、大学祭、九州から北海道までのツアー、京大西部講堂や内田裕也年末オールナイトなど多数ライブ出演する。80年代には、リザード、じゃがたら、スターリンなどや、女性バンドのゼルダ、ノンバンドなどとの共演も多く、85年にはセカンドアルバム『満天に赤い花びら』をフレッド・フリスとの共同プロデュースで制作。両アルバムは共に自身のレーベル筋肉美女より発売され、91年に2枚組のCDに。水玉消防団の1stアルバム発売後、天鼓はNYの即興シーンに触発され、カムラとヴォイスデュオ「ハネムーンズ」結成。水玉の活動と並行して、主に即興が中心のライブ活動を展開。82年には竹田賢一と共同プロデュースによるアルバム『笑う神話』を発表。NYインプロバイザーとの共演も多く、ヨーロッパツアーなども行う。水玉消防団は89年までオリジナルメンバーで活動を続け、その後、カムラはロンドンで、天鼓はヨーロッパのフェスやNY、東京でバンドやユニット、ソロ活動などを続ける。

 ◆天鼓 Official Site

天鼓の公式サイト。ヴォイスパフォーマーとしての活動記録、水玉消防団を含むディスコグラフィーなど。

◆Kamura Obscura

カムラの現プロジェクト「Kamura Obscura」の公式サイト。現在の活動情報、水玉消防団を含むディスコグラフィー、動画など。

◆水玉消防団ヒストリー バックナンバー


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