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水玉消防団ヒストリー 第1回 1976年 新宿「ホーキ星」

取材・文◎吉岡洋美
協力◎松本路子写真事務所、地引雄一

 1978年末、5人の女性によって結成された日本のオリジナル女性パンクバンド、水玉消防団。1953年生まれの天鼓、1955年生まれのカムラ、1949年生まれの可夜、まなこ、みやもとという、結成当時23歳〜29歳のメンバーたち。そのバンドのはじまりを辿ると、まず1970年代の東京・新宿のとある場所に行き当たる。女性たちだけで運営されたというカフェ「ホーキ星」である。話は彼女たちの出会いの場となったここから始まる。

女による女のためのカフェ

 1976年、新宿2丁目の古い木造二階建ての一軒家を改造し、作られたという「ホーキ星」。その目的は “女たちが集える場”。1階は食事も出来てお酒も飲めるカウンターとテーブルを配したカフェ、2階の畳の間は多くの女性関連本やイベントチラシが置かれ、お茶を飲んでくつろぐことも出来るが、フリースペースとして女性に関するさまざまなイベント、勉強会、ライブなども行われていた。運営する側も客も基本、女たち。男性は女性同伴だと入ることができた。

「要は、女性のための女性によるカフェなの。女の人が来て、話したりくつろぐところを提供しますよ、という、ただそれだけのシンプルな場」(カムラ)、「女の人がもっと言いたいことを言って、一緒に何かやれるところを作ろうという強い意志のもとに出来たオープンな場所。とにかくいろいろな女性が混ざっていましたよね」(天鼓)と、二人が言うように、括りは「女」ということのみでシンプルにしてオープン。ゆえに、学生、OLから女性解放運動家の大御所や大学教授がいれば、個人で表現活動を行なっている女性、自ら会社を興している女性等々、さまざまな女性たちで毎日賑わっていたという。例えば、ホーキ星出資者の一人でもあり、司会、歌、女優等、当時マルチな才能で活躍していた中山千夏や、シンガーソングライターの中山ラビもホーキ星の住人だった。

●中山千夏「休めサラリーマン」(1974.ライブ)

●中山ラビ「人は少しずつ変わる」(1974)


「ものすごく対等な場」天鼓とホーキ星の出会い


 天鼓がホーキ星に出会ったのはやはり1976年。福岡から進学した和光大学を卒業後、1年働いたTV美術会社を辞めて帽子のデザイン学校に通っていた22〜23歳の頃である。友達からある日、誘われたのがきっかけだ。

天鼓「『新宿に女の人たちばかりが集まっている面白いところがある』と友達が教えてくれたんですね。彼女はそこへ入り浸ってるわけではなかったんだけど、1〜2回行ったことがあるらしく、私は面白くて楽しそうなものには何でも興味を持つ性格。だから、たまたま行ってみたんです。あの頃は女の人たちの動きが色々あったときでした」

 時代は1975年にメキシコで初の「世界女性会議」が開催され、ウーマン・リブ、女性解放の運動が活発化し、日本でも“第二波フェミニズム”が巻き起こっていた頃。天鼓は「団塊の世代のあとの世代」で、「あの(団塊の)世代のように運動化していくことは苦手で、興味なかった」という一方、「女性が普通に生きていくだけで出会う理不尽さ」は常に味わっていたという。

天鼓「それは、本当にいつも思ってた。何をやっても。例えば、以前に働いていた会社はTVや舞台の美術制作ということもあって、ある意味男女対等な感じはするし、当時でも給料は同じように貰っていた。でも、最終的には対等になっていない雰囲気がある。仕事の発注先と会社とで飲みに行くことになれば、急に相手側の社長から『一緒にどこか行こう』とか言われて、会社の男の子たちは雰囲気を察するようにいなくなる。当然、相手にしないから酷い目には遭いませんでしたけど、あの頃はそんなことが当たり前だったんですよ。プライベートで飲みに行けば、隣にいた男性がグジャグジャ話しかけてくるので、私も言いたいことを言って楽しく話していたら、口を挟んできて私を諌めるおじさんが結構いる。要するに、若い女の人が元気よくて男の人に言いたいことを言うのって、間違いなく“生意気”と思われるんですよ。女が普通に大きな声で喋ること自体、生意気なわけですよね。当時はそんなことがいっぱいあったので、『早くこういうおじさんは滅びてほしい』って思ってましたけど、死んでも死んでも次から次から出てくる。そういう人が次世代を育てているのかもしれないけど」

「もう気にしてたら、やってられない」というなかで、何気なく初めて訪ねた女性のためのカフェ、ホーキ星。実は最初は「怖かった」という。

天鼓「友達は『女性ばかりの面白いところ』って言ったわけだけど、初めて行ったときは結構怖かったですよ(笑)。私よりも年上の女性も多くて、ウーマン・リブ系の運動の人もいるわけです。そうすると甘っちょろいことを話せない雰囲気もあり、喧嘩しそうにもなった。でも、それがどうこうというより、やっぱり楽なんですよ。男性がいると、ある種のロールプレイングというか、男は男で、それに対して女は女らしくという空間にどうしてもなっていく。でも、ここでは女の人ばっかりだし、皆、率直に言いたいことを言っている。つまり、年上年下関係なく、ものすごく対等なわけですよね。多少対立しても言いたいことを言うし、別にそれで仲が悪くなるわけでもない。私も、苦手だからと言って“この人は運動系だから”とか、もともと物事に先入観を持たないタイプ。だからとんでもないところまで行っちゃうこともあるんですけど(笑)、そのときは、そもそもウーマンリブ、フェミニズムという言葉自体、全然知らなくて、世の中のことを何も知らないような頃。でも、居心地がいいか悪いかは自分で分かる。ここは面白そうだと思ったら、どんどん行く性格ですから」

 その通り回を重ねて訪れるたび、面白い女性たちに出会う。そんなホーキ星に気がついたら通うようになっていたという。ちなみに天鼓が初回、「喧嘩になりそうになった」相手とは、後の水玉消防団キーボード担当の可夜である。彼女は、このホーキ星の立ち上げメンバーの一人だった。

「ホーキ星は運営している中心人物が5人ほどいて、可夜さんはそのなかの一人だった」と、カムラは話す。

1977年頃の天鼓(左)と可夜(右)。ホーキ星では出会った女性たちがさまざまなアイデアをいつも自由に話し合い、形にしていった。写真は「女たちで家を建てるけどやらない?」と誘われて、基礎工事に始まり2階建ての家を建てる3ヶ月の合宿に参加したときの二人。屋根を葺く作業中。[撮影:松本路子]

カムラ「運営には、本当にエネルギーのあるリーダー的な人もいたけど、可夜さんは好対照のおっとりしたタイプで、自分の考えも持っている人。もともと東京キッドブラザーズの制作をやっていて、運動系というより文化系センスの持ち主。彼女はホーキ星の前は銀座の“スリーポイント”という女性たちのスペースにも関わっていたはず」

「スリーポイント」とはホーキ星の前身とも言える場で、1972年から銀座のビルの一角で、やはり “女性のためのコミュニティスペース”としてカフェ営業するとともに、日本のロック黎明期のイベントプロデュースチーム、URC(ウラワ・ロックンロール・センター)も企画に入り、四人囃子、安全バンド、タージ・マハル旅行団などのライブを定期的に行うロックライブハウスでもあった。

●四人囃子「おまつり」(1974)

●安全バンド「優しいまなざし」(1972.ライブ)

●タージ・マハル旅行団「August 1974 Part1」

 ビルの都合でスリーポイントは閉店を余儀なくされ、1976年、新たな女性メンバーたちも加わって、さらなる女性のためのスペース「ホーキ星」が新宿2丁目に誕生するわけである。

「私が感じたことを話せる」カムラとホーキ星の出会い

 さて、カムラがホーキ星を初めて訪れたのも天鼓と同じく1976年。京都大学教育学部哲学科の2回生だったカムラは、当時21歳。奇しくも天鼓と同じく福岡出身で、もともとロック少女だった彼女は、学内の西部講堂で行われるロックコンサートや演劇、土方巽、田中泯の舞踏等々、「当時の革命的なさまざまなアート」に日々触れていく。

●土方巽「疱瘡譚」(1972)

 しかし、そのうち、そうした文化のほとんどが東京中心であることを悟る。「東京に行って全部見たい」と、大学を休学して単身上京し、感銘を受けた舞踏家、笠井叡の門を叩き舞踏を始めようとしていた。そんなある日、京大の友人の女性がカムラを訪ねてくる。

カムラ「友達は京大で“婦問研(婦人問題研究会)”に入っていた人で、そう言えば女性差別のことをチョコチョコ言ってたな、と思ってたんだけど、私はそもそも婦問研って名前がどうにもダサくて京大では門を叩くこともなかった。なんせロック少女だったし、当時はそのネーミングセンスがまず無理で(笑)。もちろん女性差別はいっぱい実感として持っている。でも、そのときはまだ、そういう実感を“女性問題”として意識して共有するまでつながってはいなかったよね」
 話を聞けば、婦問研の友人は中山千夏に会うために東京に来たという。
カムラ「『京大で千夏さんの講演をしたくて、連絡とったら会うことになったから泊めてほしい』と言うわけ。あの頃、千夏さんは国会議員になる前で、TVタレントとして大活躍する有名人。今でもそうだけど、多くの女性芸能人が可愛いさで売ったり認められていくなか、彼女は自分の意見を持ち、本を書いて、他の女優や女性タレントとはちょっと違ってた。すごく知的で、千夏さんが発言することには共感もしていた。そんな人が京大の一女子学生のお願いに会ってくれるという敷居の低さも素敵なこと。私はすごくミーハーで『うわ、私も会いたい!』と、一緒に会いに行ったんですよ」

 京大の友人とカムラを気さくに迎えた中山千夏は、女性についての話をはずませるうち、二人に「素敵な喫茶店がある」と持ちかけたという。

カムラ「千夏さんは『女性の喫茶店のホーキ星というところがあって、そこにはすごく素敵な女の人ばかりいるから、今から行きましょう』と、私たちを連れて行ってくれたんですよ。そこで、その日のうちにホーキ星の運営メンバー皆にも会って、私は大衝撃を受けた」

当時入り口ドアにペイントされた「ホーキ星」の文字とイラスト。新宿2丁目はその頃もゲイバーで賑わう町だった。「(バーに通う)お姉さんたちも町にはたくさんいて、大人のおもちゃ屋なんかも近くにあった。最初は“夜は誰かと一緒のほうがいいよね”なんて言ってたけれど、慣れると1人でも平気な町でしたよね」(天鼓)[撮影:松本路⼦]

 その衝撃とは「私が思っているようなことをシェアできる女の人がいるんだ」ということだった。

カムラ「私が感じていることをちゃんと話せるし、私が感じてたことを言ってる人もいる。もう、うわー、なになになに? って感じ。女としてのことを話しているんだけど、そこにいた女性たちはいわゆる教条的な運動をやってる人や婦問研の人たちとも違う。なんていうんだろう、カルチャーで結びつこうとしているんですよ。しかもすごく等身大で開かれている。え! ここにいたの? みんな! という感じだった」

 その「カルチャーで結びつく」ということの1つは、カムラがその日聞いた、女性だけのイベント「魔女コンサート」のことだった。それは日比谷野音を会場に、ホーキ星を中心とした女性だけのスタッフで出演者も全て女性だけのパフォーマーという一大コンサート企画だった。実は天鼓も、この「魔女コンサート」の話を聞く度に「これは面白そう」とホーキ星に通うようになったクチである。

天鼓「女性のために運動するとか、シュプレヒコールを上げるんじゃなく、音楽とかのイベントを皆でやる。それだったら面白い。何かやれるかもしれない、と思ったんですよ」
カムラ「女の人たちが女の人たちだけのコンサートをやる。“運動”じゃなくて、それでいいじゃない。いや、それこそが運動だ、って興奮した」

 制作の進め方自体、「画期的だった」(カムラ)という「魔女コンサート」はどのようなものだったのか。
 その前に、東京で天鼓とカムラが合流する前の二人は、いかなる意識で過ごしていたのか、まず次回は時代背景とともに二人が自身の少女時代を振り返る。

1981年8月、新宿ロフト「FLIGHT 7 DAYS2」での水玉消防団。左から可夜(kb)、みやもとSAN(ds)、天鼓(vo,g)、まなこ(g)、カムラ(vo,b) [撮影:地引雄一]

水玉消防団 70年代末結成された女性5人によるロックバンド。1981年にクラウド・ファンディングでリリースした自主制作盤『乙女の祈りはダッダッダ!』は、発売数ヶ月で2千枚を売り上げ、東京ロッカーズをはじめとするDIYパンクシーンの一翼となリ、都内のライブハウスを中心に反原発や女の祭りなどの各地のフェスティバル、大学祭、九州から北海道までのツアー、京大西部講堂や内田裕也年末オールナイトなど多数ライブ出演する。80年代には、リザード、じゃがたら、スターリンなどや、女性バンドのゼルダ、ノンバンドなどとの共演も多く、85年にはセカンドアルバム『満天に赤い花びら』をフレッド・フリスとの共同プロデュースで制作。両アルバムは共に自身のレーベル筋肉美女より発売され、91年に2枚組のCDに。水玉消防団の1stアルバム発売後、天鼓はNYの即興シーンに触発され、カムラとヴォイスデュオ「ハネムーンズ」結成。水玉の活動と並行して、主に即興が中心のライブ活動を展開。82年には竹田賢一と共同プロデュースによるアルバム『笑う神話』を発表。NYインプロバイザーとの共演も多く、ヨーロッパツアーなども行う。水玉消防団は89年までオリジナルメンバーで活動を続け、その後、カムラはロンドンで、天鼓はヨーロッパのフェスやNY、東京でバンドやユニット、ソロ活動などを続ける。


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