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市村正親に遭遇した話

ガリガリ君と市村正親

表参道で打ち合わせを終えた私は正直うだっていた。盛夏だった。
これほどまでに蒸し暑いというのに、往来する民々は流行色に全身を染めて愉快に蠢いている。先のミーティングを終えたばかりの私は、一種の解放感からか余計ヒートしていた。
その折、頭の大半を占めるのはガリガリくん。この胃袋に凍てついたソーダ味をぶち込んで芯から冷えたい。私は走った。ローソンへ。
表参道にはめたらやたらとローソンがある気がする。そして白金にはナチュラルローソンしかない気もする。また、銀座にはコンビニという概念がない。地下に幽閉されたという噂だ。
ともかく私は急いだ。ローソンだ。洒落た街並みにあの青白のストライプが目に染みる。
ふいに、既視感があった。前方をゆるりと往く男性に見覚えがある。
たてがみのような勇ましい頭髪。到底日本人とは思えない彫りの深さ。鋭い眼光。それでいて細く長い手脚。
それは紛れもなく、彼の市村正親であった。
平凡な表参道の街並みを、市村正親が平然と闊歩している。なんというナチュラル市村正親だろう。
当然、私は一瞬息を飲む。だからといって他に、何をするわけでもない。
そら市村正親だって表参道のひとつやふたつ、歩きたくなることもあろう。シャネルやディオールの新作が並ぶウィンドウに市村正親はよく似合う。
だからこれは単純な日常である。殊に、彼はオフなのだ。プライベートに或る芸能人に声をかけるほど、私は野暮じゃない。
例えそれが好きでたまらない柳家喬太朗であろうと、オフモードと感じたならば声はかけない。彼らもひとりの人間であり、また休日を誰に彼に邪魔されることなく謳歌する権利が当然ある。
だもんで、私は華麗に市村正親をスルーした。ああ、市村正親だな。と思う程度にして、それどころではないガリガリくん欲を見たそうとローソン、ローソン。
この道をずっと進めば右手にローソンがある。歩みを速める。
しかし、なんということだろう。まるで引かれ合うかのように、いやN極とN極が近づきすぎると反発し、しかしそれ以上は離れない一定の距離感を保つように、市村正親と私の距離間が縮まらない。
私が速度を上げると、正親も同様に進みを速める。私がぽつねんと止まると、なぜだか正親も停止する。
非常にイヤだ。これじゃあまるで私が市村正親をストーキングしているみたいではないか。
こういった輩が私は一番イヤなのだ。芸能人だからといって後をつけたり、サインをせがんだりするのは猛烈にダサダサである。「鶴瓶の家族に乾杯」だけが、サインをもらってもよい唯一の場だと思っている。
故に、斯様な勘違いをされるかと思った私は市村正親の動向を非常に恐れた。
どうか、どうか次の角を曲がってくれ、と願う他ない。
しかしなんてこったい。あの、市村正親が、私が向かおうとしているローソンに入っていくのだ。
なんだこれは。もしや狸にでも化かされているのかも知れない。他、ドッキリ的なものの可能性も否定し切れない。ああ、でも。私はガリガリくんが食べたい。
負けた。勘違いされることよりガリガリ欲が勝ってしまった。最早、知るか、といった気分。市村正親がどんなコンビニに入ろうと、そこに私が続こうとどうでもいい。知ったことか。そんな気分で怏々にしつつもふんぞり返って入店する。
この狭いコンビニの中、絶対に市村正親とバッティングしてはならない。
目当てのガリガリくんをサっと取ってスッと購めガリッとする。無駄の無い動き。完璧だ。
直ちにアイスコーナーへと駆ける私。衝撃。そこにいるんだ、市村正親が。
ガーンッを超えてゾーンッという気分。
もしかすると、市村正親は気付いているのかも知れない。先ほどから何者かが後ろから着けていると。詰め寄られるだろうか、市村正親に。ミュージカル会場の二階席からでも映えるあの眼光で見られたら、気を失う自信がある。
私は出来るだけ気配を消しつつ、それでも幾許か正親のことが気になって、やおら視線を向ける。
すると、そこには「市村正親にちょっぴり似ているただのおっさん」が立っていた。
そう、私が市村正親だと思っていた人物は、唯、市村正親っぽい普通のおっさんだったのである。
正親っぽいおっさんは、新聞のラックからニッケイを抜き去ると華麗に会計を済ませ、ただのおっさんよろしくローソンから消えた。
唯単に、私が勝手気ままに平凡なおっさんを市村正親だと思い込み、勝手に気まずくなって、勝手に絶望した。それだけの話だった。
どうにか気持ちを保ちつつ、ガリガリくんを購入する。
表参道の道端で外装を破ると、コンクリートジャングルに熱波。ガリガリくんは外気に当てられて濡れねずみの如く汗を流し、最早ヘニョヘニョくんであった。
その後は、蝉の音と共に融解、瓦解、唯のおっさん。ゾーンッ。


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