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ネモの孤独

 歓声に包まれている。期待と熱が蜃気楼のように揺れる。人々が団扇や拳を掲げて、その瞬間を待っている。
 3.2.1
 オレンジ色の炎、白い煙。強力な推進力に打ち上げられる。まるで空に向かって引力が働いているかのようだった。自然の法則には真っ向から逆らっているというのに。
 第二宇宙速度で熱狂と涙が遠ざかる。故郷の命と生みの親が瞬く間に小さくなっていく。分厚い雲を割いて、その一部を纏いながら、真っ直ぐ突き抜けていく。空気は一気に冷え込んで、無数の凍てつきそうな水滴が表面を撫でる。
 それらは計器やセンサーによって記録されている。数値という情報になって、処理のために頭に送り込まれていく。本当に細かいことが、意識する間もない一瞬のうちに行われる。行っているという実感すらない。
 そして圏界面にて、温度の変化は反転する。オゾン層付近、周囲は加速度的に熱くなっていく。正しくは、熱い場所に向かっている。そうしてまた極限まで冷えて、最後に一番熱い層に当たって、本当に故郷の引力を振り払う。
 衛星軌道に乗るまで、突き進んでいく。その途上で世話になった下半分とは永遠の離別。それは極めて機械的でマニュアル通りの分割。地球はこれに喜んでいるだろうか。管制室の喝采をぼんやり思い浮かべる。自分の一部に見えていたものが、パラパラと落ちていく。オレンジ色になって、さっき少し見えた海まで真っ逆さま。
 ふわりと浮くような29000km/hで、周回軌道に機体を合わせていく。人間の肉体の操作で言えば、平衡感覚に従って細いロープの上に立つことに似ている。
 ゆっくりとメインカメラが開く。ただいまより記録を開始する。
 地球が纏う大気は仄かに青い。緑や黄土色や過半を占める青が、真下には広がっている。月は、遥か彼方に青白く光る球形の砂漠。無機質でカオスのない場所である。そしてその向こうには、孤独な地球の外側には、一面の黒が広がっている。どこまでも深い闇の色のうちに、ぼんやりと浮かんでいる一滴の雫のような、たった一つの母星が光る。
 航行する船の群れが海峡を潜り抜けて、各々の目的地に散開していく。当然逆の流れもある。光は海にも獣道を作る。巨大なリボンのような形を作って、この惑星を一つのプレゼントのようにしている。しかし、包みから外れた、全く光のない場所もある。朝鮮半島の北半分や、イスパニョーラ島の西半分、赤道より下のアフリカ西海岸がその代表例で、世界中が煌々と光る夜にも、そこは漆黒の闇に覆われている。
 格納されたアームを伸ばし、巨大なクラゲのようなフォルムになると、本機の長い就業時間が始まる。スペースデブリ。衛星軌道上に無数に存在する巨大な屑の群れ。これを収集、破壊するのが与えられた役目だった。貴金属探し。これはおまけであり主目的だった。
 かつて活躍していた気象衛星の欠片、壊れた軍事衛星、ゴミとして放棄された探査衛星の尻尾。偉大な目的のために振り落とされたものを、掴んで吸着させたり、狙って破壊したりする。大部分は後者になる。とりあえず、現在稼働中、もしくはこれから活躍する機体の障害にならないよう、取り壊すのが先決になる。一応、壊すものは認識の上、検索をかけて、性質を調べる。しかし、中国やロシアの民間企業が打ち上げた物の中には、個体登録がされておらず、アメリカのデータを参照していても見つからないことが多い。
 持ち帰るのは、大気圏を抜けても形が残る巨大な鉄塊や、停止して間もない衛星である。落ち零れると危険な類である。
壊して、壊して、たまに拾って、集めて、運んで、また壊して、壊して、拾って。
 絶え間ない単純作業に見えても、そのプログラムは非常に複雑である。AIは絶えず視界に入るものの正体を探す。不明な場合は確認を取る程度の自立性は備えている。
 拾って、集めて、運びきれなくなる。既に自身の3倍の体積のデブリをアームに載せている。そのうちのいくつかは壊れ始めていて、ボロボロと屑をまき散らしている。振動に耐えられないのだろう。せっかく拾い集めたというのに、また軌道を汚してしまう。間もなく、帰還命令。
 故郷が近付く。つまり落下していく。軌道を外れた役目御免の機体は常にこうなってきた。その摂理とも言うべき原則は、今日になっても、まだ変わらない。
 巨大な荷物を抱えて帰るから、極力居住区域から隔絶された領域を選ぶ。
ポイント・ネモ。古くから人工衛星の墓場とされ、巨大な人工物が落とされ続けてきた到達不能点である。今からそこに飛び込む。どこまでも広がる青が視界に入る。幸いなことに空は済んでいる。最後に写真の一枚でも撮るのが相応しい。撮影用のカメラを持たなくてもそう思う。
 今、管制からこちらに送られてくる信号はない。誰かが見守っているのだろうか、誰もいないのだろうか。それすら解らない。最初は歓声に囲まれて送り出されても、最後は最も孤独な場所に落とされるのが筋書きになっていた。そしてその最後の一幕が今、実行されつつある。
 熱を帯びた機体が少し回る。ヒュルヒュルと大気中を落ちていく。冷たい水とぶつかって、巨大な飛沫が上がる。
 アームには沢山の、かつて仲間だったものの身体を抱えている。
 ミッション・コンプリート

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