見出し画像

風が運ぶ季節 #シロクマ文芸部

 風薫る海辺の町。
 海に面したこの町は、1年を通して海の香りに包まれている。
 しかしこの時季にだけは、みずみずしい新緑の香りが、爽やかな風に乗って届く。

 灯台に空いた窓から海を見下ろして、彼女は深く息を吸い込んだ。
 今年もまた、新しい緑の香りがする。

 少し視線をずらして、町と海を隔てるように伸びている堤防に目をやる。



「今年もこの時季がきたなぁ」
「わたし、みどりの風のかおり、大好き!」
 堤防に座った老年の男が嬉しそうに呟くと、隣の少女が目を輝かせて返す。

「お、緑の風のにおい、か。なるほど、なるほど」
 少女の頭をわしわしと撫でる。
 この町で漁師をしていた男は、老いてなお精彩で豪快だった。
「ねえ、おじいちゃん。このかおり、小さなビンに詰めて、どこにでも持って行けたらいいのにねぇ」
「そんなに好きか」
「うん! だって、なんだか魔法みたいで、トクベツ、って感じがするでしょ?」
 確かに、と老人は深く同意する。

 春でも夏でもない隙間。
 そこに季節が存在することを忘れてしまいそうなほどの短い時間を、この風が思い出させる。
 誰一人として海の香りに包まれることを嫌う者はいないとしても、この町の住人にとって特別な風。

「どこへでも持って行けるさ。おまんが忘れなければな。ずっと、ここと、ここに、残る」
 優しく言いながら、胸のあたりと頭を指す。



 彼女は目を閉じて、もう一度深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出す。

 忘れていない。
 この香りも、あの記憶も。
 忘れていない、だからこそ。
 この時季になると、ここへ帰ってきたくなる。
 自分自身で、この風を感じたくなる。

 彼女は高校を卒業して、大学へ進学するタイミングでこの町から離れた。
 けれど彼女が暮らす町に小さな緑が芽を出し始めると、どうしてもここへ帰りたくなるのだった。


 おじいちゃんはもう、いなくなっちゃったけど。
 風は、あのときのままだよ。


 春の終わりと、夏の始まりが、混じり合う。
 あっという間に通り過ぎてしまう季節を、めいっぱいに吸い込む。
 何度も何度も深呼吸をする。

 小瓶になど詰めなくても、心と記憶にずっと残っている。
 それでも――、

 やっぱり、持って行きたくなっちゃうなぁ。

 あの日祖父に話したことを現実にしたくなる。


 数日もすれば、この町は強い夏の海の香りに包まれる。

 今だけ。
 もう少しだけ。


 最後に一度、深く、深く、その風を吸い込んで、彼女は灯台の階段に向かった。



 新しい、夏が来る。





#シロクマ文芸部 企画に参加しました。



▶ 最近の シロクマ文芸部 参加ショートショート:
花吹雪のいたずら 4/18 お題「花吹雪」
春への逃避 4/25 お題「春の夢」
黒い目玉のこいのぼり 5/2 お題「子どもの日」

▶ 【マガジン】ショートショート:


▶ マシュマロ投げてくれてもいいんですよ……?!
感想、お題、リクエスト、質問、などなど


2024.05.11 もげら

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?