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姫野カオルコ「彼女は頭が悪いから」感想〜他人を見下すのが好きな彼ら〜

*ヘッダー画像は、「Pixabay」から
https://pixabay.com/ja/photos/大学-日本-東大-東京-秋-2127450/

鬼才姫野カオルコさんの小説『彼女は頭が悪いから』。
現実に、2016年に起こった、東大生5人による強制わいせつ事件をベースにした作品である。
フィクションではあるが、半分ノンフィクションと言ってもいいかもしれない。
2019年の東京大学入学式、上野千鶴子氏の祝辞でこの事件とこの作品が言及されたことも記憶に新しい。


この小説が描こうとしたものは、一見、「学歴社会のもたらす人間性の麻痺、欠如」の問題だと言えそうである。
「東大生」というところに特別フォーカスが当たってるように見えるし、それがこの小説の宣伝文句にもなっている。

でも、わたしが感じたのは、この作品は、むしろもっと普遍的なところ、力とか権力を持つ人間の思い上がり、残酷さを描いているんじゃないかということ。

また、この作品は、上野千鶴子さんが言及したように、かなりジェンダーの観点が意識されてる(というか、元の事件がホモソーシャルによる女性蔑視をベースにして起こってるいるとも思えるので自然とそうなったのか)と感じる。

男性の集団の残酷さ、身勝手さを鮮明に描いており、いわゆる「ホモソーシャル集団の有害さ」というやつである。

この作品に対して、東大生はそんなに万能感は抱いていない、そんなにモテない、だから小説の描写は見当違いだ、といった意見が結構あるようだ。

東大生については、これまで所属するコミュニティーの中では成績優秀だったはずが、東大に入ったら周りに自分と同じ程度に、あるいは自分より頭のいい人がいて、意外と自信を喪失している、自分に自信のない人が結構多いのではないかと思う。

ただし、人間は自信がなければ、その分自分より「下」と思えそうな人を見下して自信を回復しようとするものだし、まるで自信があるかのように傲慢に振る舞うものである。
これは特にプライドが高い人間ほどそうで、東大に入るような人間は大抵プライドは高い。

本当のところは、自信がない人ほど、自分がどれだけ凄いかをアピールし、他人に対して偉そうな態度を取る。
この作品で描かれた「事件」の加害者であるつばさたち男子たちも、本当はどこか自分に自信がないのだろう。だから東大という肩書きで自分のアイデンティティを保とうとする。

そもそも、本当に自分に自信があって、自分自身そのものに満足していれば、こんな犯罪を起こさないのではないか。

彼らの内面の感情はあまりちゃんと描かれていないので少し分かりにくい。加害者である東大生の1人、つばさの一人称で描かれるパートが多くあるが、つばさの本質はそこからは認識しにくい。

彼自身が自分の感情を認識することが苦手なのだ。それは同時に、彼が他人の感情に寄り添えない人間であることも意味している。

東大生そんなにモテないよ問題については、まあ結局人によるのでは、という。どんな大学でもそうかもしれないが。ただ、高学歴の男子がそうでない場合よりは比較的モテやすいということは一般的には言えるだろう。

この作品のキモは、決して学歴、東大ということころにあるのではなくて、社会において「偉い」「凄い」「地位が高い」とされている属性に置かれた人たち、本作では「東大」「エリート」「男性」「家がお金持ち」あたりが主なのだろうが、そういった属性に生まれついたり、後天的にそういった属性になったが故の傲慢さや残酷さを見事に描いたところなんだろう。

東大、というのは単にそれを示すためのとても分かりやすい一属性だったのだと思う。

むしろこの作品でつばさたちが持っている傲慢さは東大という属性もあるが、「男」という属性によるところの方がより大きいようにも思える。
彼らは女を金儲けや欲望の発散に使いながら「見下して」おり、「馬鹿に」している。その女が特に学歴も高くなければダブルで見下せる訳で、より一層その傾向は強くなる。

本事件は男たちが女を裸にしたということから「わいせつ事件」と認識されており、実際に形式的に見ればそうなのだが、
小説では、この事件は性欲に動機付けられたというよりも、「誰かを侮辱して気持ちよくなりたい」という身勝手な動機により行われたものだった、と描かれている。

男子がいじめの一種として、集団で1人の男子を裸にして殴ったり、性的ないやがらせをするのと同じような種類の、相手を貶めることで快感を得る行為。

痴漢などの性犯罪のモチベーションに性欲が全くない訳ではないだろうが、性犯罪の加害者のモチベーションは自分より弱い誰か(女性)に「嫌がらせ」をして「自分の支配下に置いて」「溜飲を下げる」「ストレスを発散」するという側面が強いと言われている。

「自分より弱い立場をいじめて憂さ晴らししたい」という欲望が人間にはあるのかもしれない。

つばさについて、「自分の気持ちを深く考えたりしない」人物だという描写がされているが、自分の感情をちゃんと認識できない人間は、他人の感情にも共感することができない。

つばさたち、加害者は東大生たちは、共感性に欠けている人物であるが、自分たちの感情もちゃんと認識できない人間なんだろう。自分の感情をちゃんと認識できず、他人に共有することができないというのはかなり(おそらく無意識に)ストレスが貯まるはず。そのストレス発散として、彼らは集団でいじめをする。

彼らから感情を奪ったのは、兎に角良い大学に、というエリート教育や、男が感情を出すのはみっともない、という様な社会に蔓延する男性論なのかもしれない。


そして、つばさたちが見せる傲慢さについては、つばさたち東大男子だけではなく、彼らの親であるエリートたる大人たちも見せるものだ。

犯人の1人の母親であるエリート女性が、あなたが被害者と同じことをされたらどう思うか、と問われて「ひどい侮辱を受けた」と憤慨した場面があるが、
彼女は被害者のされたことがひどい侮辱だと、自らの反応で示しておきながらも、どう思うかと聞いてきた女性に対して腹を立てるのみで、自分の息子のした行為の酷さにはなぜか思いが至らない。

彼女は、息子可愛さ故の麻痺もあるかもしれないが、エリートである自分とそうでない被害者を同じ人間として見ることができないのだ。
これは、一部の男が女を同じ人間として見ることができないのと似ている。

ジェンダーの問題は、つまるところ権力格差が生み出す問題であり、それは性別だけではなく、権力格差があるところにはどこにも似たような問題が生じるのだと思っている。


わいせつ事件の被害者となる美咲は、素朴な、極めて「普通」とも言える女の子だ。別に裕福ではないが、温かい家庭に育って、ものすごく美人でも優秀でもない、自己肯定感の比較的低い女の子だ。

女の子は、男の子に比べて自己肯定感を得られにくい社会だが、彼女もあまり自己肯定感は高くない。美咲の高校時代からの生活を具体的に描写することによって、美咲の生活環境、人柄、感情が詳細に伝わってくる。これが、わいせつ事件の悲惨さをより一層際立たせている。

ニュースでは単なる「女子大生」だったのが、1人の女の子としてリアルな存在として浮かび上がってくる。

美咲の描写について、「いい子すぎる」みたいな意見も見かける。「お金目当て、肩書き目当てで東大生に近づく女の子もいる」みたいな意見もある。
ただ、こういう恋に恋するような素朴な女の子は別に珍しくはない。そして、そういう子ほどおかしな男に引っかかったりする。
確かに、肩書き目当てで東大生に近づく、そういう女の子もいるんだろう。ただこれは、男の子が女の子を容姿で容赦無く判断するのと、内面で判断していない、付き合うことによる自分のメリットしか考えていない、という意味では同じではないか。

そして、女性が、1人で暮らしていくのはまだまだ難しい社会だ。賃金格差も大きいし、妊娠出産すればその間は仕事を休まざるを得ず、それにより出世コースから外れたり、非正規となり貧困となるリスクも高い。
子連れで働くのが大変な社会であるし、子連れで働く時間が制限されると出世もしにくく、得られる賃金も低くなる。
生存のために経済的に安定しそうな男性と結婚したいなどと考えるのは、一種、自分が生き残るための生存戦略であり、私たちは彼女たちを責められるのだろうか。

彼女たちを責めるのであれば、そういう女の子を減らしたいのであれば、男女の賃金格差をなくし、妊娠出産があってもドロップアウトしなくていい働き方を実現し、育児家事の負担差も減らせばいいのだ。
そうすれば、男性の経済力を重視する傾向も減るだろう。
女性がもっと稼ぐことができれば、男性の経済力に頼ろうとする女性も減る。

また仮に、被害者が美咲ほどの素朴さのない、「東大生狙いの」スレた女の子だったとしても、この犯罪が決して許される(正当化される)わけではないのは言うまでもない。


この小説のモデルとなった、現実に起きた事件は、男から女への、そしてエリートから非エリートへの両方の残酷な眼差しが見事に具現化した事件であり、社会で恣意的に作られた属性による差別構造がいかに人を残酷にしてしまうかを具現化した事件だった。
あまりにも分かりやすく「具現化」した事件だった。

この事件が起こった時、小説内でも描かれたように、現実でも、被害者の女の子に対してなぜか批判が起こった(無防備にも男たちについていった、事件時にマンションの部屋に女性が1人だった、加害者が東大生だったことから、女の子の方にも落ち度がある、下心があった、などと批判された)。

この、被害者に不当な批判が実際に起こったこと自体が、男性が、そして東大生というエリートが社会において不当に優遇されている現実を見事に語っていた。

この小説は、そんな優遇される者たちへの静かな怒りに満ちた告発の小説のように感じた。もちろん、加害者たちのような事件を起こさない東大生、そして男の子たちの方が多いだろう。

ただ、彼らの中に他人を見下す気持ち、それで快感を得ている気持ちが全くないかと言われたらどうだろう。
仲間内の会話で、自分たちが下だと思う属性の人たちを見下したり、馬鹿にしたり、対面で実際に小馬鹿にしたりすることの延長線上に、今回の犯罪が存在する。

少なくとも私たちは、そんな人間の醜さに自覚的にならなくてはいけないと思っている。

性別、学歴だけではなくて、他の属性でも、私たちは簡単に属性を理由にして他人を侮辱する生き物なんだということを自覚して、そこからはじめてそういった醜い言動を改善していくことができるんじゃないだろうか。

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