おだやかな自殺

 私は時々心が寂しくなります。身が震えるほどの、押し寄せるような寂しさではありません。包み込まれるように優しく、どっぷりと怖くなるのです。私はそれが、心底恐ろしいような気がして、真夜中に1人で訳も分からず泣くのでした。いったい何が怖いのか、それすらも分からずに。

 その日はとてもよく晴れていて、私が高校を理由なくさぼった初めての日でもありました。時刻はお昼を過ぎたところで10月の空が高く澄んでいて、心地の良い日差しが眠気を誘いましたが、外の空気はすっかり冬の匂いを含んでいます。パーカーの下にもう一枚Tシャツでも着ればよかったと少し後悔しながらも、私は自分の住んでいる団地の屋上へと足を進めました。通常屋上は立ち入りが禁止されていて頑丈な南京錠で封鎖されているのですが、ここの管理人である祖母の家から先日こっそりと鍵を拝借してきたので何も問題はありません。

 ガチンと大きくて冷たい南京錠を開け、おそらく長い間閉ざされたままだった扉を勢いよく押すと、空の色よりも緑が目につきました。屋上の風化して割れたアスファルトの間からにょきにょきと雑草が生え放題になっていたので、青い空よりも生い茂る緑の方に目がとられたのでしょう。とても強い生命力を感じ関心しましたが、残念ながら開放感よりも荒廃した印象しか私は持てませんでした。

 私はドアを背にして南側にある落下防止のフェンスの方へ向いました。伸びすぎている名前も知らない草たちが、歩くたびに足に絡みついて何度か転びかけたりもしましたがケガをすることもなく、緑色のフェンス越しに下を覗くことができました。5階建ての団地から見る景色は思っていたよりも高くはなく、車も携帯電話くらいのサイズで駐車場に収まっています。

 フェンスの網の部分に手をかけると、塗装と、これは、錆でしょうか?とにかくそういったザラザラとしたものが手にこびりつき一瞬顔をしかめましたが、私は気を取り直してフェンスをよじ登りました。3メートルほどの高さを登るのはなかなか骨が折れ、頭では怖くないと思っていても降りる時は身体がこわばって苦労しました。フェンスから降りてきちんと屋上に両足を付けてから改めて下を見ると、先ほどよりも地面がうんと遠く感じます。

 あと一歩。

 たった一歩この場所から動き出せば、私は多分地面に打ち付けられて死ぬでしょう。

 そう思うと、ぶるりと身体が震えました。恐怖からではありません。私は高ぶる興奮を抑えきれずに、ぶるりと身体を震わせたのです。

 私はここから落下する妄想を、何度か繰り返しました。

 そのうち、なんだかひどく冷静になって、別になにも悔いがないような気さえしてきました。頭もぼぅっとするし、落ちてみたいような、そんなふうにさえ思ったのです。

 そんなさなか、おだやかな孤独が私の胸に現れました。じくじくと私の心を寂しさが広がってゆきます。この感覚を初めて感じたのは、小学校5年生の時でした。いつも遊ぶ6人の友達と近所のショッピングモールで買い物をしていた時、ふと猛烈に孤独を感じたのです。きっかけなんてものはありませんでした。ただ不意に心にぽっかりと穴が開いたのです。何の理由も、心当たりも、自分が何に孤独を感じているのかさえ理解できないものでしたから、誰にも相談できませんでした。その事実が、より私の孤独を大きくさせたのです。

 そんなことを考えながら、履いていた右足のサンダルを1つ蹴とばすと、何の音もなく、落下していきました。

 何か視線を感じて、ふと前の方に顔をそらすと、子供がこちらを見上げています。私はどうすることもできずに子供を見つめ返しました。少し遠くの方にいたので表情までは読み取れませんでしたが、顔がリンゴのように赤いツインテールの女の子でした。すると、その子が急に口をひらきました。

 「あーそーぼー!!」

 この距離では到底想像のつかないほどの大声で、耳元で叫ばれているかのようにキンキンとした声が、私の体をびくんと驚かせます。その衝撃で片足が屋上の縁からずり落ち、ひやりと肝を冷やしました「危ない!」と思い、すぐに足を引っ込め、はっとしました。先ほどまでここから飛び降りようとしていたのに「危ない!」だなんて矛盾している。私は「ぷぷぷ」とのん気に笑いました。それとは裏腹に心臓が早鐘を打って、私の身体を血液がものすごい勢いで循環しています。冷や汗がだらだらと流れ、額のあたりが一瞬真っ白になりました。

 「あーそーぼー!!」

 子供がまだ叫んでいます。けれど、先ほどのように耳元でつんざくような声ではありませんでした。距離に見合った声量で私に話かけています。私は彼女に小さく手を振り、来たときのようにフェンスをよじ登り始めました。

 私のつまらない自殺のようなものは、こんな感じでぼんやりと終了しました。

 何事もなかったかのように、自宅に帰り。パートから帰ってきた母がおやつを食べながら私に言いました。

 「そういえば、今日子供のころのあなたを思い出したのよ」

 「子供のころ?」

 「そう、確かあれは幼稚園くらいの時だったかしらね~。この団地の屋上から飛び降りようとした人が居て、あなたがその人に大声で話しかけたのよ」

 「え?」

 私はテーブルに置いてあったチョコレートに伸ばしかけていた手を思わず引っ込めました。記憶の中に何か引っ掛かりを感じ、少しで記憶の蓋が開くような気配がします。

 「あなたが屋上の方に向かって何か叫び声をあげていたから、私も気が付いてね。とにかく気が動転したんだけど、どうにかしなきゃって!思ったものよ」

 私は、はっとして母に尋ねました。

 「ねぇその人って若い人だった?」

 母は視線を宙にさまよわせて、少し悩んだようでしたが、サッパリとした態度で

 「そうね若かったわ!でももうあんまり覚えていないわね~なにせ10年以上前のことだもの。ただあの時は、必死だったわよ。結局何もできなかったけれど、大げさでもなんでもなく私の行動であの人が助かるかもしれないし、死ぬかもしれないと思ったんだから」

 と言いました。

 「まぁ、でもいつの間にか忘れていたのだけどね」

 と付け加え。ふふふと笑い。「あら、笑ったら不謹慎よね」と急に真面目な顔になったので、私も思わず笑ってしまいました。

 「あはは」「うふふ」母と私の笑い声が、この狭い部屋にぎゅうぎゅうといっぱいになった頃、父が傘を差しながら帰宅してきました。いつの間にか外では雨が降っていたようです。母は夕食の準備をするために台所へ向い、私は自室に戻り本棚へと手を伸ばしました。並べてある本を指でたどり、その中でもとりわけごつごつとした分厚く、大きい本を抜き取ります。すっかりと閉じ切っているそれを開くと、まだ幼稚園児だった頃の自分がとびきりの笑顔で写真に納まっています。私は思わず微笑んで、そしてアルバムをパタリと閉じると、夕飯の支度を手伝うために自室を出ました。

 その晩お布団を敷いて眠りにつく時、おだやかな孤独がまた私を陰らせましたが、もうさほど気にはなりませんでした。

 まどろみの中で突然、私の記憶の蓋が開き、いくつかの映像が脳内にフラッシュバックしました。あれは幼い私が団地の周りで母とアリを探していた時のこと、不意に見上げた屋上に人を発見したのです。しばらく眺めていると、その人が靴を落としたので私はそれが靴飛ばしのゲームだと勘違いをして「あーそーぼー」と声をかけました。その人は私に気が付き、間を置いてから少し手を振ってそこから姿を消したのでした。

 私は本棚からまたアルバムを取り出し、幼稚園のアルバムをもう1度開くと、自分の写真を探しました。小さなリンゴ色のほっぺをしたツインテールの可愛らしい子供が笑っています。私はひんやりとしたアルバムを抱いて眠りにつきました。

 これは誰にも言えない不思議な、おだやかな自殺のお話です。

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