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我が子と向き合うこと

先日石を口に入れた娘が、今度は道に落ちていた草を口に入れたと保育園から連絡があった。

ここで先生達が心の奥で言いたいこと、よーくわかる。
「お兄ちゃんがアレだしもしかして…」
そんなこと口に出したら私がブチ切れそうだから言えないのだろう。
でも確実に先生はそのニュアンスを滲ませるどころかダダ洩れさせながら私と話していた。

確かに息子はASDの疑いとして現在検査も受けている。
確かに兄弟で発達障害があることもある。

でも、石や草を口に入れたからって発達障害なの?

その後娘と話をして、なぜそうゆう行動になったのかを聞くと「美味しそうだった」とか「入れてみたらどうかなと思った」と理由を話した。そのことを先生に伝えると
「私はそんな風に見えませんでした。完全に衝動的な行動です」
と言い切った。
もはや、何も言えん。

衝動的な行動…

でしょうね。
だって美味しそうとか口に入れたらどうなるのかとか興味があっての行動だからね。

確かに娘は本能のままというか衝動的な行動が多い気もする。
家ではおしゃべりだけど、保育園では周りをジーっと見ながら静かに過ごす。

そのジーっとしている間に色々と考え「やってみたい」と思うことにイメージを膨らませる。
その結果、イメトレだけで縄跳びを飛べるようになったり、イメージしたものを絵にかいたりすることができる。
娘は好奇心と努力の人だと思ってきた。
その好奇心が石や草を口に入れようとする行動に繋がるのだけど、それを問題児として扱うのは…ちょっと早いんじゃないの?と思う。

「この年代の子ではやらないことです」という話も息子の時から言われてきたけれど…
それって何基準なの?とも思う。
生活環境が違えば成長の度合いや理解度もバラバラになる。
そこら辺を何かの基準で決めてしまうのも、やっぱり早いなと思った。

私自身、生きづらいと思うことがあったけれど、成長の中で「これは仕方のないことだ」と諦めたり他の人より努力や工夫をしたりしてここまで何となく生きてきた。
自分のことを決して正しい人間だとは思わないし、気を抜くと色々判断を間違うことだってある。

「発達障害の診断やその先の治療や訓練は、大人が楽をするためじゃない。本人が先を見据えて生きていけるようになるためのもの」
息子の生きづらさを相談した時に言われた言葉で、心の中に置きながら子供達と向き合っている。

生きている中で周りとの差や凸凹に向き合うことは沢山あって、どう工夫すればできるだけ心地良く生きられるかを考え続けていく。
基準と違うから全てを否定するような大人になってはいけないなと思う。

娘について先生達が気になることは職業柄仕方ないとも思う。
しかし、娘の中にある好奇心について「いけないこと」とバッサリ切るのではなく、まずは娘に聞いてみて欲しかった。

帰り道に娘に「どうして草や石を口に入れようとしたの?」と聞くと、火が付いたように怒って泣き出した。
「泣きやんだら教えてね」とだけ伝えてしばらく様子を見ていると「…何か美味しそうだった」と答えた。
そこで初めて、外にあるものは危ないものがあることや口にすることで命の危険があることを伝える。
そして、大人は怒っていないことや心配したことを伝えた。
娘はしばらく聞いて「わかった」と答えた。

ここまで向き合って話をできるのは家庭だからこそなのかもしれない。
沢山の子供がいる中で1人だけに向き合うのは難しいよね…。

娘の様子を見ていると、先生に対する抵抗感が強い気がする。
それは自分がいつも怒られているとかではなく、周りの様子を見て先生の反応を見ているから感じることなんだと思った。
いつも他の子が怒られているから、自分に声をかけられた時怖いと感じる。
観察癖のある娘ならでは。

娘だって障害云々に関わらず生きづらさや不自由さを感じている。
そんな時に、自分を肯定して導いてくれる人が居たとしたら娘の人生は大きく拓けていく。

今、娘と話をするためには一回怒って泣いてを通り過ぎなければいけない。
子育てとは、待つこともあるのだなと娘との5年間で感じた。

親と子の立場では、親側が主導になることが多い。
でも、もう娘は色んなことを見て考えている。そのこと尊重する時期に入ったんだと実感する。
もっと、娘と話をしてみようと思った。

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