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繊細さとホモソーシャル的価値観

吉田博展@東京都美術館に行ってきた。

吉田博も版画も鑑賞するのは初めてだったが、まず美術館に立ち入って、最初に目に入る初期の油画「渓流」を観て息をのんだ。

絵であるはずのそれ自身から音がするのだ。その場で20分ほど立ちすくんだ。すると、どこを鑑賞するのかによって音が異なることに気がついた。

画面奥の赤い岩肌に反響する水の音、手前の白っぽい岩に水が当たる音、水が落ち込んでぶつかる音、それぞれに異なる音がする。美術館に行くことは多くはないけれども、初めての体験に驚いた。そのまましばらく音に耳を傾ける。時間の感覚が失われていく。自分がどこにいるのかもわからないほど、「渓流」の空間に吸い込まれていく。

やっとの思いで、「渓流」から陸に、水を含んで重くなった体を引き上げ、版画まで歩みを進める。

視界の右端がきらりと輝いた。何だろうと思い、視点を右に向けると、この展覧会のメインである版画のシリーズだった。正面から観ても光を感じないが、左右斜め45度から鑑賞すると、眩しくて目を開けていられないほど光っている。なんだこれは…。

そしてどの版画からも光を感じるわけではなく、特定の版画の光に反応するようだった。

しばらくお気に入りの作品を鑑賞していたが、自分がひどく消耗していることに気がついた。眩しすぎて体力が追いつかないのだ。

重い足を引きずりながら休憩用のベンチを見つけ出し、腰をおろす。そのまま30分ほど目を閉じて丁寧に呼吸を整えた。それでもアニメージュ版『風の谷のナウシカ』の巨神兵が出すように、光の毒は身体中をかけ巡っていた。

やっと半分を鑑賞したところで力尽きてしまい、もう半分の作品を観ることなく東京都美術館をフラフラになりながらあとにした。

それから1週間ほどして『さよなら、男社会』を読んだ。

この本について言及する時は言葉を慎重に選ばなくてはならないと思うのは、とある女性に自分自身の発言が「マンスエクスプレイニングだ」と指摘された経験が直近であったからだろう。

恥ずかしくもフェミニズムの勉強が不足していて、女性にとって男性が凶器であることを理解はしつつも、自分自身が無自覚な凶器だとは想像が及んでいなかった。

本を読むことは言語を獲得することなのかもしれないと思う。自分自身がずっと抱えてきた、でも言語化できなかった生きづらさは男社会、ひいてはホモソーシャルな関係性に絡め取られていたからだと認識することができた。

高校生の時はバスケ部だった。顧問の先生は常にむすっとしていて、大きなミスがあると奇声を発しながら殴る蹴るを繰り返すこともあった。「そんな昭和な…」と思いきや2000年代中盤のことである。自分と同学年の元ヤンはもっと手に負えなかった。先輩に気に入られていることをいいことに同学年や後輩の部員に好き放題していた。周囲の取り巻きは常に彼にビクビクして、一挙手一投足に注意を払っていた。そして彼の暴力やいじりは「笑い」という誰も幸せにならないものに昇華されていくように見えた。

しかし被害者ぶってはいけない。それは女性からすると甘えであることは本書を読めば理解せざるを得ない。楽しくないとはいえ、自分自身もそのホモソーシャル的価値観の集団に所属していたことを考えると、加害行為が免責されるとは到底思えない。

処世術として身につけてしまったホモソーシャルな社会性は、その後、自分に利益と厄災をもたらした。狭い関係性の中で型にはまったコミュニケーションのパターンを繰り返し、それっぽい関係性を構築するのに多少は役に立ったかもしれない。しかし、そんな中で育まれた友人知人は大学を卒業してしばらくすると、あらかじめ決められていたかのように連絡を取り合わなくなった。

社会人になってからはさらに厄災が加速した。「男だからしなくてはならない」ことに息がつまった。転職のための退職交渉で上司に言われた一言が今も忘れられない。

「お前も結婚して家庭を持ったら転職したいとか思わなく なくなるから」

結婚して家庭を守るために、理不尽な要求に耐え続けている彼の姿を見てもとても幸せそうには思えなかった。常にやつれ、疲れた白い顔でやっと作る彼の笑顔を思い出す。

男社会では繊細さは弱さとして判断されるらしい。弱さは常に隠し、強者として振る舞うことが要求される。「弱音を吐くな」「男は働いて当然」そんな呪いの言葉たちが降りかかったのは一度や二度のことではない。

展覧会で酔ってしまうくらいなので、人から「繊細だね」と言われることが多い。その言葉には、繊細だから弱々しい、男らしくないという侮蔑が含まれているように思う。そしてその侮蔑は男性だけでなく、女性から発せられることも多い。

しかし、『さよなら、男社会』を読んで一筋の光が見えたような思いがした。

繊細さは力そのものではない。だがさまざまに感じることができることは強さであり、微細に感じ取ったものを注意深く発揮するときにそれは力として外部に表現される。
『さよなら、男社会』p.116より引用

翻ってみれば、繊細さは弱さだと思い込まされたり、自ら思い込もうとしていたことに気が付く。

狭く息苦しい男社会では繊細さは弱さなのかもしれない。しかし男社会だけが社会ではないのは明らかで、別の社会から見れば繊細さは「さまざまに感じることができる強さ」になり得る。

一部の男性のみが利益を享受し続ける構造が男社会であるように思う。女性はもちろんのこと、その男社会からはみ出さざるを得なかった男性もまた抑圧されているのではないか。もしそうだとしたら、女性だけでなく、男性もフェミニズムについて深く知らなければならないように思う。

世代に関係なく、男性が選ぶ道は二つに一つなのかもしれない。一つは今までのホモソーシャルな価値観に依存し続けるか、もう一つはフェミニズムについて知ることで価値観をアップデートさせ続けるかだ。
※あとから読み返して「男性」が「選ぶ」ことができると(思い込んでいると)いうのもまた男社会の特権を享受してきたホモソーシャルな価値観であるかもしれない。

あくまで男性であるから「選択できる」と思っているだけで、ひょっとすると男社会に生きる女性には選択の権利も与えられていないのかもしれない。そのことは男性として想像はできるけれども、決して体験できないことである。だからせめて知る必要があるように思う。これは考え過ぎだろうか。著者の考えを部分的に反映すれば、「考え過ぎではない。あなたが考えなさ過ぎだ」ということになるだろう。

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断片的なあとがき

『さよなら、男社会』はエッセイ風の軽い筆致で読みやすいが、文体の好みが分かれると思う。個人的にはとても読みづらく、内容が素晴らしいだけに残念だった。
※と思ったものの、2回目を読み始めたらスイスイと読めたので自身の文体の慣れが関係していると結論づけた。

自分が無意識にナイフを振り回していることに気がついた以上、慎重に言葉を選んだつもりだが、それでもやはり長年に亘って染み付いてしまったホモソーシャルな価値観は拭えていない。(例えば「慎重に言葉を選んだ」という言い回しも自分は引っかかる)

男性がフェミニズムを擁護すると、男性からも女性からも指弾されてちょっとしんどのよねっていうのが本音。男性からは「モテたいだけだろ」と揶揄され、女性からは「男社会の中心で生きている男性の助けは必要としていない」「今まで加害側だった男がフェミニズムを学んで被害者ヅラしている」と言われてしまうのが何ともしんどいどころです。

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そんなわけで締めくくりたいと思います。

さよなら、男社会


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